essay
  平成16年9月2日 12
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
秋のソナチネ
 冬ソナだ、ヨン様だと、世間はかまびすしい。
 テレビはスポーツ中継だけで、朝ドラだの、連ドラだの、ましてや大河ドラマだのは一切見たことがないから、あれこれ言うこともないのだけれど、まあ、好きな人にはたまらないのでしょう。どうぞ、お好きにやってください。
 世間が冬ソナ、冬ソナと騒いでいる間に、私はいま、ひとりで、「秋ソナ」に取り組んでいます。冬のソナタではなく、「秋のソナチネ」です。
 ピアノを一度もかじったことのない人にはお分かりいただけないかと思いますが、ピアノを練習するときは、普通まず、バイエルというものをやらされます。子どもはだいたい親にやらされているので途中でやめられませんが、オトナになって始めた人は、たいていこのバイエルでつまづきます。はっきり言えば、これが面白くないんですね。多くのオトナは、好きな曲を1曲だけ弾けるようになりたいと思ってピアノを習い始めます。テネシーワルツだとか、エデンの東だとか、別れの曲だとか、それは人さまざまですが、ともあれ面倒な練習はしたくない。1曲だけ弾けるようになればそれでいい、と思ってピアノ教室に通い始める。でも、教える側はそうじゃない。イチからきちんと教えたい。で、バイエルということになってしまうわけです。ま、なかにはそうじゃなくて、バカなオトナの言うことを聞いてくれる若い先生もいますが、古くからやっている先生は、そういうわがままはなかなか聞いてくれない。基礎をやらずして何がピアノか、という気持ちを持っているわけです。正論です。
 私も、実は1曲だけ教えて下さいと習いに行き、その1曲(イエスタデイ)をむりやり教えてもらってそれでやめようと思っていたのですが、なんとなくやめると言い出せなくなって、そのままズルズルといたらバイエルをやらされて、それが終わったらこんどはブルクミュラーという第二段階に行き、それがまた面白くなくてしかも難しいので何度やめようと思ったかしれないのですが、また言い出せなくて、ついにそのつぎの段階の、ソナチネに行ってしまって、それをいまやっていると、そういうわけなんです。
 嫌ならやめればいいじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、気が小さくてこれがなかなか言い出せないんですよ。きょうこそやめるって言うぞと思って行くと、そういう日に限って先生が、「オトナの人はすぐ途中でやめたいって言うんですよね。その点、金子さんは真面目だし」などとおだてるんです。で、またズルズル。
 そうやってもう5年です。5年といえばすごいですよね。週1回通ってるんですよ。なのに、何か曲が弾けるかというと何ひとつ弾けないんです。せめて、エリーゼのためにとか、乙女の祈りくらいは弾きたいと思うじゃないですか。でも、まだ早いらしくて、やらせてくれない。やりたいんだよなあと思っていると雰囲気で分かるらしくて、「オトナの人はすぐ曲を弾きたいと言い出すんですが、それよりまず練習曲をみっちりやっておけば、曲なんてすぐ弾けるんです」と、先回りされてしまう。で、また訳の分からない練習曲ばかり。
 だからもう、ホントやめたいの。でも、言えないの。
 ですからもう、苦行というか、人間修行というか、そう、ふだん、好き放題、やりたい放題に生きているから、ひとつくらいつらいこと、厳しいこともしなけりゃ人間としていけないのかななんて思って、それで続けてるような次第。
 ソナチネの7番(ソナチネの中のいちばんやさしい練習曲)というのがあって、これを始めたのが6月8日。で、なんとかそれを完成させたのが8月31日。つまり、1曲仕上げるのにゆうに3ヶ月かかったということ。夏の間、こればっかりやってた。そして別のソナチネがあと十数曲あって、それをぜんぶ仕上げれば、次の段階のソナタに行くと、どうもそういうことになってるらしいのよ。
 ああ、いつになったらこの苦行から抜けられるのかと思って窓の外を見たら、夏の間ずっと咲き誇っていたノーゼンカズラが、そろそろ夏の終わりを告げていた。