essay
  平成16年11月6日 15
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
小春日和の午後
 空がすんでいる。きれいな空だ。
 秋はいい。
 きれいな秋が好きだ。
 秋の空がこんなにきれいなことを、東京に住むひとたちは知っているだろうか。東京にはほんとうの空がないと智恵子さんというひとは言ったようだけど、確かに、東京の空がきれいになるのは正月だけだもんな。いや、たとえきれいな日があったとしたって、誰も気が付きゃしない。みんな忙しい。おちおち上なんか向いていられない。
 「おーい、お茶にしよう」
 縁側に寝そべって、小春日和の午後、「そんなに働くなよ」と、妻に声を掛ける。
 さっきから、ジョウビタキが足下のまわりをチョンチョンと跳び歩いている。上体を動かしてもまったく逃げようとしない。小鳥にも、ぼうーっとしている人間と、あわただしくしている人間との区別がつくのだろうか。忙しくしているひとは、小鳥にもひとにも優しくはなれない。そのくらいのことは、小鳥にだってわかるのかもしれない。
 
 秋は、色がきれいだ。
 すみきった空、その空をうつした青い海、紅葉した広葉樹。
 妻は、春がいちばん好きと言うけれど、私は秋のほうがいい。人生の秋を迎えたからじゃないのというひともいるかもしれないけれど、そうじゃない。若いときからのこと。ロッククライミングに熱中していて、岩壁を登攀するとき、見上げる秋の空の青さに、生きている証を見ていた。岩の割れ目に打ち込むハーケンの音も、春よりも秋のほうがなぜかこころに響いた。山の春は華やかで、秋は静謐。その空気の静謐なところが好きだった。
 菜の花や桜もあでやかでいいが、コスモスやそばの花のほうが穏やかでいい。
 新緑もわくわくするが、紅葉のほうがこころが静まる。
 そしてなにより秋の色できれいだなと思うのは、稲刈りをしたばかりの稲だ。
 黄金色と黄緑色が微妙に織り混ざって、青空の下で太陽の光をキラキラと反射させて輝いている。それは誰もが目に出来るものではなく、自分で刈り取って稲かけをした者にだけ与えられる特権。なぜならその色模様は数時間の後に消えてしまうから。夕方になれば黄緑色は乾いて消えうせ、枯れた黄金色一色になってしまう。
 
 秋は枯れ葉。マイルス・デイビスやビル・エバンスの、「枯れ葉」を聴くのもいいけれど、裏山の落ち葉を踏みしめて歩くのもいい。落ち葉を嫌うひとがいるけれど、私にはそのこころがわからない。(濡れ落ち葉が嫌われるのはわかる)。
 昔、都会のマンションに住んでいた頃、庭に桜の木を植えていたら、近所のひとから落ち葉が汚いから切ってくれと言われた。もちろん切りはしなかったが、若いときから落ち葉を踏んで歩くのがなぜか好きだった。もっともいまでは、畑の堆肥になるのでかき集めて拾ってくるが。
 その枯れ葉の中で、きれいだなと思うのが、柿の葉っぱだ。柿の葉っぱだけは畑にすき込まないで、縁側に並べては眺めている。何日かすれば風に飛ばされてどこかへ消えてしまうが、それはそれで構わない。きれいなものは、自分のものにしようとせず、眺めるだけにしておいたほうがいいからだ。
 きれいなものが嫌いな人は少ないだろう。たいていの人は、汚いものよりきれいなもののほうが好きだと思う。
 清少納言は、「ブスは嫌いだ」と言ったという。何かに書いてあったのを最近、読んだ。私もブスはけして好きじゃないけれど、そこまでハッキリは言わない。なかには気だてのいいひとだっている。じゃあ、考えてみよう。
1、きれいで、気だてもいい。
2、きれいだけど、気だてがわるい。
3、ブスだけど、気だてがいい。
4、ブスで、気だてもわるい。
 さて、おつきあいを希望するならどのタイプ。
 まず、4は無条件でパスしたい。3はブスの程度にもよるけれど、無視はできない。2はちょっと迷うけれど逃げたほうがいいような気がする。1はいますぐオトモダチになりたい。
 
 でもね、景色や木の葉は、「きれい」を基準で選んでいいけど、野菜や果物やヒトだけは、きれいで選んじゃいけないよ。危険がアブナイから。
 直売所で見ていると、ほとんどのひとが、「うわー、このキュウリ、きれい!」「こっちのイチゴのほうがきれいだから、これ買おう」と言っています。それは私をがっくりさせます。消費者のみなさん、もう少しベンキョウしましょう。きれいなキュウリはなぜきれいなのか。きれいなイチゴはどうしてきれいなのか。
 
 これは、ここだけの話ですが、私の友人に、「きれいだったから」という理由だけで結婚相手を選び、「失敗した」という男がいます。怖いです。逆に、「きれいじゃないけど、まいっか」と妥協して、「でも、それでよかったような気がする」と言っている友人も、これは何人もいます。キュウリとヒトは、きれいで選ぶのはやめましょう。