essay
  平成17年12月2日 23
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
いただきます。
 文藝春秋12月号の特集『消える日本語』を読んでたら、元NHKアナウンサーだった鈴木健二氏が、講演会等で調べた話としてこんなことを書いていた。
──「戴きます」と「ご馳走様」をきちんと言って食事をする家庭は三割に満たない。
 へーっと驚いてしまった。
 そうなんだ。今頃のススンデル家庭は、いただきますも、ごちそうさまも言わないんだ。
 じゃ、どうすんだ。黙っていきなり食べ出すのか。朝だったら、食べ終わったら何も言わずにそのまま会社や学校に行くのか。そういう家の父親や子どもは、それじゃ、行ってきますも、ただいまも言わないんだろうな。だったら、行ってらっしゃいも、お帰りなさいもない。もしかしたら、おはようも言わないか。こりゃ、静かでいいな。
 そう、鈴木氏はこうも言っている。
──日本へ来る外国人が一様に不思議がるのは、なぜ日本人は朝起きた時に、家族で「おはよう」を交わしあわないのかということだ。
 なるほど。そりゃ不思議がるわな。日本人の私だって不思議だわ。
 うちは、言いますよ。オクレテルからね。
 朝起きれば、おはよう。寝るときは、おやすみ。私は早寝早起き、妻は遅寝遅起きでいつもすれ違いだけど、必ず声は掛け合う。
 この辺では、大人でも子どもでも、道で出会えば誰だって当たり前に挨拶する。黙って通り過ぎる人なんてひとりもいない。いや、ひとりだけいるか。その人は最近、よそから越してきた人。元都会人。都会と言えば2、3年前に上京したとき、早朝にジョギングしていて妙な気分になったことがある。同じようにジョギングや散歩をしている人が何人もいたので、ついいつもの調子で、すれ違いざまに、「おはようございまーす」と声をかけたのだが、ひとりとして返事を返してくれる人がいなかった。聞こえてるに決まってるのに、みんな下を向いて走り抜けるだけ。昨年、大阪の淀川河川敷で早朝走ったときもそうだった。さすがにそのときは、おれも田舎っぺになったなと悟った。子どもはもちろんそうだけど、都会では大人も、知らない人に声をかけられたら無視しましょうなのだった。

 うちではふたりとも、いただきますも、ごちそうさまもちゃんと言う。
 でも、白状すると、私は数年前までは、ただなんとなく習慣で言っていただけだった。子どもの頃からそう言いなさいとしつけられていたから。黙って食べたらお百姓さんに申し訳ないでしょと、よくお袋が言ってた。いまは、当人が百姓になっちゃったから、その意味がわかる。生産者や、料理してくれた人、自然の恵み、お天道様への感謝の気持ち。それが素直に言葉として出せるようになった。ま、何だって自分でやってみなければわからないんだね。
 そう言えば、いつだったか、テレビの、『遠くへ行きたい』を見ていたら、永六輔が、「いただきますというのは、動物や植物に対して、あなたの命を私の命に代えさせていただきます、というのを略して、いただきますというのです」と言ってた。
 いい年してそれまで知らずに使っていたが、そうなのかと妙に感心してしまった。
 それで、そうだ、うちでもこういうことは略さずにきちんと言うことにしようということになって、食事のたびに、あなたの命を…と言い始めたのだったが、やっぱしこういうことは長続きしないもので、いつの間にかなし崩しになってしまった。いまは略して、いただきます。 
 と、私のいい加減さは毎度のことなのだが、そんないい加減さでは済まない、もっとスゴイ風がこの国に吹いていることを、今朝の新聞で知ってしまった。世間はここまで来ているらしい。
 小学校ではいま給食の時間に、いただきますを言わせているが、これについて、「給食費を払っているのだから、そんなことは言わせるのはおかしい。別に施しを受けているわけじゃないのだから、いただきますなんて言わせるのはやめさせてほしい」と保護者から苦情が出ているというのだ。
 スゴイ!