essay
  平成18年7月19日 27
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
栄養がある。
 わが連れ合いは、どうも、「栄養がある」ことを、「とてもいいこと」と思い込んでいるふしがある。
 なにかというと、「栄養があるから」と言って、ものを食べさせようとする。
 私は、カボチャが嫌いである。サツマイモも好きじゃない。オカラなんか、なんであんなパサパサしたものをみんな喜んで食べるのかと首をかしげたくなる。カボチャもイモもオカラも、子どもの頃、嫌と言うほど食わされた。だからもう、見るのも嫌なのである。なぜそんなものばかり食わされたかと言えば、それしか食べるものがなかったからだ。
 代用食という言葉は、いまでは死語であろう。私が子どもの頃は、よくこの言葉を使った。「かあちゃん、またきょうも代用食?」「そう、代用食で我慢してね」という会話が、毎日のように繰り返された。イモのふかしたやつが、ご飯の代わりなのである。そうだ、スイトンもあった。
 テレビの料理番組で若い女優が、「わぁ、私スイトン大好きぃ!」なんて騒いでいたが、カツオブシやコンブや化学調味料でダシを取っている今どきのスイトンと、安い醤油だけで煮た昔のそれとでは、中身がまったく違うのである。
 ついでに言うと、海老も好きじゃない。何かの食事会で天ぷらを出されて海老を残したりすると、えっという顔をされる。
 海老が嫌いになったのは、子どもの頃、ザリガニを食い過ぎたからである。原っぱで三角ベースをして遊び、腹が空くと近くの小川でザリガニ(私たちは当時、エビガニと言っていた。赤いやつはマッカチンと呼んだ)を捕まえてきて、家の裏の空き地で焚き火をし、空き缶に水を入れてザリガニを茹でて食べたのである。海老もザリガニも味は同じだから、海老を高級なもののように崇められるのはちゃんちゃらおかしいのである。
 
 私は、栄養があるものより、うまいものを食べたいと願う者である。
 私の食べ物に対する価値基準は、栄養よりもうまさのほうが上位にランクしているのである。考えてみても、だいたいが、栄養のあるものというのはまずいものであることが多い。ニンジンなどは栄養があるらしいが、子どもはみな嫌う。牛乳だって栄養があると言うが、嫌う子どもは多い。それを母親は、栄養があるからと言って無理やり食べさせたり、飲ませたりする。これでは、子どもが可哀想である。同様に、まずいものを食べさせられる夫も哀れである。
 青汁だって栄養はあるのだろうが、あんなもの飲めたもんじゃない。
 飲むと言えば、わが連れ合いは料理はうまいのだが、スープなどはうっかり飲むとえらいことになる。コーンスープなど気をつけないと、カボチャが混ぜてあったりするのだ。だましてカボチャを飲ませようと計るのである。色が似ているから油断できないのだ。ときどき、「うまい!」 と言ってからあとで、「ん?」と気づき、「やられた」と後悔するのだが、あとの祭り。敵は、「分かった?」という目で見ているから悔しいのである。
 餃子も得意料理の一つだが、こういう細かく刻んだものの時にも細心の注意がいる。紛れ込ませやすいからである。ハンバーグなどもとりわけ警戒を要する。実際、「子どもたちにはこうやって、嫌いなトマトやシイタケをずいぶん食べさせた」と自慢しているのを聞いたことがある。アブナイのである。
 だいたい、栄養があるものというのは、栄養があるのだから太ることにつながるはずである。夫が栄養があるものを食べる→太る→コレステロールがたまる→早死にする→妻に保険が入る。こういう図式は世間ではよくあることである。
 
 私は、世間一般に栄養があると言われているよりも、自分でうまいと感じるもののほうがカラダにいいと思う者である。
 コンニャクなどはほとんど栄養がないと言われているが、私は大好きで目がなく、煮物やおでんなどが出ると必ずコンニャクを集中的に食べる。トコロテンも好きである。キュウリやナスも好きである。普通ならこういったものを好んで食べていればやせるはずだが、腹はこのところ出るばかりである。メタボリック症候群とやらの危険ラインを越えるか越えないかの瀬戸際にまで来ている。(いま巻き尺で測ったらドンピシャ85aだった)。
 美食は肥満の元などと言うが、あれは嘘。じゃ粗食ならやせるかといえば、そんなことはないのである。粗食でも立派に太るのである。
 適度な運動は脂肪を燃やす、なんていうのも信じないほうがいい。私は、一日おきぐらいにジョギングをしたり自転車に乗っているが、体重は増える一方である。
 飲み物では酒類は出来るだけ控えるようにえらいセンセイがたが言われているが、私は出来るだけビールも発泡酒も焼酎も日本酒もウイスキーも控えないように心がけている。週1回は休肝日を、などというバカなことも取り合わないことにしている。いや、実はこれがよくないのではないかと薄々気づいてはいるのだが、たとえ週1回とはいえ夕方、ひとっ風呂浴びて、さあ、コーヒーで刺身をつまむかとはどうしてもいかないのである。栄養があるからとカボチャの煮物を出され、きょうは休肝日ですからと静岡のお茶を勧められても、「はい、いただきます」と、素直に手は合わせられないのである。