essay
  平成18年11月26日 29
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
かあちゃん。
 「きょう、ママンが死んだ。」
 という書き出しで始まる小説、アルベール・カミュの、『異邦人』。
 私は二十歳の時、これを読んで深い感銘を受けた。それはただの深い感銘というのではなく、とてつもなく深い感銘と言っていいくらいのものだった。
 だからいまでも、いままで読んだなかでいちばん心に残る小説は何ですか、ともし聞かれたら、私はこれを真っ先に挙げると思う。ま、この小説の内容については読んだことがない人には読んでいただくとして、今回は、私のママン、おふくろのことを書こうと思う。
 私は子どもの頃、母親のことを、「かあちゃん」と呼んでいた。当時、母親のことを、上品におかあさんと呼ぶ者はまわりにはいなかったように思う。むろん、ママなんて呼ぶ者は皆無だった。東京世田谷の用賀というところに住んでいたが、どこも同じようでとりたてて裕福な家庭は少なかったように思う。
 ただ、小学校3年の時、斉藤君という子がいて、これは何か父親が大企業の社長らしく、すごく大きな屋敷に住んでいて、服装からしゃべり方まで上品だった。なぜか、私はそいつと気があって、屋敷に遊びに行ったりしていた。といっても相手がお大尽だからといって何もへつらっていたわけではなく、私の方が勉強でも運動でも勝っていたので、向こうがついてきたという塩梅だった。4年生になった時、やはり同じ斉藤さんという女の子がいて、この子も裕福な家庭らしく、ある時、きょうの朝ご飯は何を食べましたかという質問が先生から出た際、その子が、「トーストに紅茶です」と応えて、みんなを驚かせた。なにせその頃といえば、昭和27年頃だけど、私もまわりのやつらも、トーストも紅茶も見たことがなかったのだ。可哀想に、その発言があってから、その子はイジメにあって誰からも遊んでもらえなくなってしまった。パンと紅茶でイジメられたんじゃたまったもんじゃないだろうが、その頃からイジメはあったのである。
 そしてこれは余談だけど、小学校を卒業して中学1年だったか2年だったか、狛江というところに住んでいる小学校時代の女先生の家に遊びに行こうという話になって、男4、5人で遊びに行った。その時、昼飯にトーストと目玉焼きが出た。これがトーストかと目を見張ったが、誰も食べ方を知らない。ひとりが勇気を出して、ナイフとフォークでトーストと格闘しだしたので、みんなそれにならって悪戦苦闘。そしたら、先生が手でつかんで食べ出したので、みんな驚いたのだった。
 
 話が横道にそれてしまったが、母は現在、満で93歳になるけれど、いたって元気で、横浜に住んでいて、ひとりで電車に乗って渋谷や自由が丘へ買い物に行くのを楽しみにしている。この夏も、孫や曾孫と一緒に長崎まで来てくれて、暑い中で庭の草取りをしてくれた。
 その時、そのおふくろに、(死んでからでは間に合わないので)聞いてみた。
 「おれの子どもの頃のことで、印象に残っていることを3つ、教えてよ」。
 そしたら、かあちゃんは言った。
 「そうね、カズは小さい頃、気が小さくて、用賀の駅前に住んでいたとき、家の前の大通りによく米軍のトラックやジープなんかが通っていたんだけど、玄関の扉から顔だけ出して、そのトラックなんかが来ると、さーっと逃げ込んでくる」
 あ、そうだったの。覚えてないなあ。それから?
 「そうね、小学3年の頃かな、夕方になると紙芝居が来て、飴を当てるクイズがあって、それは学年別になっているんだけど、5年生、6年生の分までみんな当ててひとりでもらってきちゃう。頭はよかったね」。
 うんうん、それは覚えてる。で、3つ目は?
 「中学の頃は、野球づけで毎日、汚れたユニフォームを洗うのが大変だったね。滑り込むのかなんだか知らないけど、こびりついた汚れが落ちないんだよ。その頃は洗濯機もなかったから手洗いでね」。
 
 じゃ、お返しに、おれが覚えてるおふくろの3つを言おうか。
 ひとつは、質屋かな。小学生だったと思うけど、学校の近くに質屋があって、よくそこの暖簾をくぐったよね。子どもながらに、それはなんか恥ずかしいことと思っていて、嫌だったな。貧乏だったからね。
 それなのに、中学の時、中古の自転車を買ってくれた。これはうれしかったな。だって、小学生の頃から、自転車を持っている子がいて、持たないやつはそいつのあとを走ってついて行ってたんだよ。ま、おれは元気だったから、そいつより先に自転車に乗れるようになって、そいつがボクにも乗せてと言いながらついてきてたけどね。
 もうひとつは、高校2年のとき、ひとりで北海道一周の無銭旅行に行った。このことはおれのその後を決める大きな出来事になっているのでいずれ別に書こうと思うけど、その出発の朝、おふくろが用賀の駅まで付いてきた。心配だったんだろうね。で、駅でこれを持って行きなさいと言って手渡してくれたのがなんと、たらの干物。
 なんでたらの干物かと思ったけど、あとで分かった。無銭旅行だから、宿は野宿でいいとしてあとは何を削るかと言ったら食べ物を安くあげるしかない。一食菓子パン1個で済ますとか。で、野宿しながら毎日、たらの干物をしゃぶりましたよ。
 
 群馬の割と裕福な農家の長女として生まれ、お嬢様として育てられたと聞きました。縁あって東京生まれの親父と結婚し(親父は優しかったそうだけど)、厳しい姑に泣き、さらにある時から突然、経済的な苦労を背負い、働きづめで3人の子どもを育て、お金ではずいぶん苦労したんですよね。それなのに、いまでも会えば必ず、(誰にも内緒でと言って)小遣いをくれます。こっちがあげなければいけないのにね。おれ、64歳でさ、孫も3人いるんだよ。子どもじゃないんだからさ。年金だってもらってるし。だから、小遣いなんてもう、心配してくれなくてもいいんだよ、かあちゃん!