essay
  平成19年2月23日 30
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
ほんとのギムレット。
 レイモンド・チャンドラーの長編、『長いお別れ』に、ギムレットの話が随所に出てくる。
 なかでも、物語終盤、「ギムレットにはまだ早すぎるね」という台詞は、ハードボイルド・ファンには泣かせる台詞としてつとに有名。
 チャンドラーと言えば、ご存じ、フィリップ・マーロー。
 『プレイバック』で、「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」と言った、あの探偵だ。
 そのフィリップ・マーローと、テリー・レノックスの男の友情、あるいは愛?を見事に描いたのが、『長いお別れ』(ハヤカワ文庫・清水俊二訳)。
 「静かなバーへ行って、飲まないか」と言って、ふたりが、「ヴィクター」というバーへ行く。そのバーの隅に座って、ギムレットを飲む。
 テリーが言う。
 「…ほんとのギムレットはジンとローズのライム・ジュースを半分ずつ、ほかには何も入れないんだ」
 酒を飲まない人にはどうでもいい話だろうけど、私のような酒飲みには、これが結構、聞き捨てならない台詞なのよ。
 ふつう、ギムレットと言えば、ドライ・ジン3/4、ライム・ジュース(コーディアル)1/4でシェークするじゃない。だから、ジンとライム・ジュースを半分ずつと聞けば、ちょっとそれ甘すぎるんじゃないの? 錐(キリ=ギムレット)のような鋭い切れ味はどこへ行っちゃうの? となるわけですよ。でも、それがほんとのギムレットと言われちゃえばさ。それに、ローズのライム・ジュースって何よ。ということで調べたら、イギリスのローズ社のライム・ジュースのことなんだね。と、ここまでは前振り。ごめんね、長くて。

 ある日、東京の悪友・H君から、「金子さーん、長崎市内にヴィクターってバーがあるの知ってました? そこでローズのライム・ジュースを使ったギムレットを飲ませるらしいですよ」とメールが入った。え、ほんと。知らなかった。じゃ、行かなくちゃ。
 早速、あちこち当たってみたら、長崎の悪友・H君が、「行ったことありますよ」と言うではないか。ほんじゃ、ということで、某日、つるんで出かけたのであった。
 H君行きつけの小粋なお店でちょいと腹ごしらえをして、赤い灯青い灯、ネオン瞬く路地、怪しい抜け道を抜けて思案橋へ。狭い階段をトントンと上って2階の重い扉を開けると、なかなかしゃれた雰囲気のバー・ヴィクター。
 照明を落とし、聞こえるか聞こえないかといった音楽、静かなたたずまいの中、カウンターの中には中年のバーテンダーがひとり。軽く頭を下げて迎えてくれる。カウンターのいちばん奥はたぶん常連さんの席なのだろうけど、まだ早めの時間なので座らせてもらう。長居はしないつもりだ。まだ酔客はいない。でも、午後9時、「ギムレットにはまだ早すぎるね」という時刻ではないだろう。10時を過ぎれば混み合ってくるに違いない。バーをじっくり楽しむには、早い時刻のほうが静かで落ち着ける。
 バックバーには、見慣れたスコッチ、バーボン、リキュールが並んでいる。バックバーを見れば、その店のこだわりが見て取れる。これ見よがしのいやらしさがなく、さりげないボトルの種類と並べ方が初めての客を落ち着かせてくれる。出しゃばらないバーテンダーの心遣いもうれしい。bar-tenderのbarは酒場、tenderはlove me tenderのtender、優しいという意味だろう。酒場の優しいおじさんでいてほしい。頼みもしないのにどこで仕入れたか知れないうんちくをうるさく語られたりしたら、酒がまずくなる。寡黙なバーテンダーが、こちらをそれとなく伺う。
「ギムレットをお願いします」
「どのように」
「ローズのライムで」
「はい、かしこまりました」
 あとで考えてみたら、寡黙なバーテンダーと言葉を交わしたのは、結局、これがすべてだった。注文を受けたバーテンダーのこのあとの行動が面白かった。カウンターの奥へ行ってかがみ込み、なにやら箱を取り出してごそごそやっている。ローズのライムを取り出しているのだ。ということは、もしかしたら私たちの注文が珍しいものだったのかもしれない。
 ジンは、ゴードンだった。ゴードンはロンドン生まれ。イギリスのローズ・ライムなら、ジンだってイギリスじゃなきゃ。さすが、ワカッテル。おぬし、できるな。
 シャカシャカ…。手慣れた手つきのシェークに見とれる。私もわが家のジャズバーでシェークすることはあるけれど、なにせ素人、ああはうまくいかないなあ。
 甘くて飲めないんじゃないだろうか、と警戒しつつ口にしたのだけれど、意外にすっきり、きりっとしていて鋭い切れ味。ジンもライムも香り高く、芳醇な風味。あえて尋ねはしなかったのだが、もしかしたら飲みやすくアレンジしたのかもしれない。
 ということで、まずは、「ほんとのギムレット」をフィリップ・マーローになりきって、じっくり時間を掛けて堪能し、そのあと、辛口のギブソンで口直しをして店を後にしたのだった。
 それにしても、バーを覗いたのは、考えてみたら十何年も前のこと。長崎へ来て13年、一度もバーへは足を踏み入れてない。昔、六本木のあるバーへ通ったことがあるのだが、それ以来のこと。たぶん同じようにこの先また何年間も、ネオン街をそぞろ歩くことはないだろうと思う。
 またしばらく、バーとは、「長いお別れ」になるかもしれない。