essay
  平成19年7月22日 32
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
野球少年の夏。
 家から4kmほど走って行ったところに、市営のグランドがある。いつもはガランとしているのだが、たまたまその日は日曜日だったので、少年のソフトボール大会が行われていた。何かの大きな大会らしく、グランドを9面くらいに区切って、あちこちで歓声が上がっていた。ジョギングの途中で汗をかいていたが、金網の柵の上から覗いて思わず見入ってしまった。
 そろいのユニフォームを着た小学校低学年と思われるちびっ子たちが、バットを振り回したり、走ったり、投げたりしている。父兄の数が多いのが昔と違うが、眺めながら、自分の子ども時代を思い出した。
 私が低学年の頃はもっぱら、「ごろベース」や、竹の棒をバット代わりにした、「三角ベース」で、ボールは軟式テニス用のゴムまりだった。ごろベースではよく右手の親指をすりむいた。
 5年生の頃から学校で軟式野球をやり始めて熱中した。もちろんその頃は、ユニフォームなんかはなくて、いや、グローブやバットさえ個人ではなかなか持てなくて、友だちのを借りて、交代で使ったりしていた。私の初めてのグローブは新聞紙を折ってつくったものだった。中古の本式グローブを買ってもらったのは6年生も終わり頃だったか。形はいまのグローブとは違って、赤ちゃんがしもやけになった手を開いたような形で、指が短く網の部分も小さく、手の真ん中でボールを受けるようになっていた。つい最近、ベーブルースが使っていたグローブを写真で見たが、それと同じだった。手の真ん中でボールを受けるので、捕球の時は結構痛かった。中身にはわた(アンコと言った)が入っていたが、自分でそれを半分ほど抜いて、ワセリンをすり込み、使いやすく改良したりした。いちばんのそれが宝物だったから、ずいぶん大事にしたものだった。
 6年生のときだったか、松竹ロビンスのホームランバッター小鶴選手が小学校へ現れて、大騒ぎになった。あれはなんで来てくれたんだろう。その頃、紅梅キャラメルというのがあって、おまけにプロ野球選手のカードが入っているので、母親に小遣いをせがんでは駄菓子屋に走った。川上や青田、千葉などが人気カードで、持ってないカードはポンというゲームで友だちから巻き上げた。机や地面に置いたカードを少し丸めた手でポンと叩いて裏返すとそのカードを勝ち取れるというゲームで、そういうことには長けていた私は、これで箱いっぱいのカードを集めた。集めたカードは、紅梅の本社まで持って行ってバットやボールに換えた。本社は世田谷の豪徳寺の先にあって、用賀から歩いていった。いまならとても歩いてなんか行けない距離だから、よくぞ歩いたものだと思う。
 中学では迷わず野球部に入った。強豪校ということもあって、1年生で100名くらいが入部した。しかし初めのうちは外野の後ろで、「バッター来い、バッター来い!」と大声を出すだけで、バッティングなどはさせてもらえない。来る日も来る日も、ただ大声で叫ぶだけ。いまだったら、モンスター・ペアレント(バカ親)が何と言って騒ぐかしらないが、当時は何があったって学校へ駆け込む親なんていなかった。でも、子どもは自分で判断して、夏休みが来る前にほとんどが練習に来なくなった。秋になって野球部に残った1年生は4名になっていた。その中の一人が、プロゴルファーの榎本七郎で、彼も野球が好きだった。中学の3年間は毎日、野球ばかりしていた。
 中学の野球部のほかに、隣町に瀬田すみれという少年野球のチームがあって、そこにも所属して、東京都の少年野球大会に出ていた。その後、住んでいる町に用賀グリーンズというチームができてそこへ呼ばれて移った。町内に甲子園に出た先輩がいて、私も高校は当時の強豪校であった法政二高へ行ってプロ野球選手になる夢を描いたが、家庭に事情で都立高校へ行くしかなく、そこで硬式も握ったのだが甲子園は夢に終わり、プロ野球選手の夢は絶たれた。
 しかし、会社勤めをしてからもずっと野球部に所属し、ずいぶん野球には親しんだ。長崎へ移住してからも地域のソフトボールのチームに誘われ、活躍し、そこでも地域へとけ込むのに大いに役に立った。物事の取り組み方や先輩や目上の人に対する礼儀、言葉使いなどもすべてスパルタ式の野球から学んだので、ずっと体育会系の縦社会意識から抜けきれず、若い人から嫌われたりもしたが、直そうとする気持ちは一度もなかった。困ったものではあるが、しょうがないと思っている。いまは百姓だから、「しょうがない」と言ってもクビにはならない。
 きょうもテレビで高校野球(長崎大会)を見たが、いまでも高校野球を見るたびに野球がしたくなってうずうずしてくる。しかし、町内に草野球のチームはなく、キャッチボールをする相手もいない。それでもときどきグローブをひっぱりだしては、ワセリンをすり込んでいる。息子たちにも野球をやらせたかったが、長男も二男も野球はあまり好きにならなかった。
 孫がもし野球をやりだせば、おそらく見に行くだろう。行って、モンスター・ジジイになってしまうかも知れない。そう言えば、子どもの頃、試合には必ずと言っていいほど野球狂の私のおやじが見に来て、ネット裏から、「かず、打て〜!」と大声で叫ぶので、それがイヤでイヤでたまらなかったのを覚えている。