essay
  平成19年8月16日 33
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
青い空と白い雪。
 
 ころり寝ころべば青空            山頭火
 
 せんだんの木の下に寝ころんで入道雲を眺めていたら、風が心地よくて、一瞬、暑さを忘れかけた。稲の収穫時のあのどこまでも澄み切った青空も好きだけど、夏の暑い盛りの青空も悪くないなあと思う。
 青い海には絵に描いたようにヨットが浮かび、畑に目を移せばひまわりや鬼百合が咲き誇り、ノーゼンカズラやむくげが風に揺れ、先ほどからオニヤンマが悠然と顔のすぐ上を行ったり来たりしている。そして蝉時雨。ああニッポンの夏、長崎の夏。
 私は長崎人ではないから、積乱雲を眺めても原爆は思い浮かべないが、あの日もこのような青い空だったと、きのうテレビが伝えていた。60年以上が過ぎてなお青い空を眺めては涙するなんて一体どれほどの悲しみなのか、想像も出来ない。
 
 私はいま、青い空を仰ぎながら、48年前の夏を思い起こしている。
 昭和34年の夏、高校2年生だった私は、ひとりで北海道の旅をした。
 その頃、いろいろあって家も学校も面白くなく、どこか広いところで、「バカ野郎!」と叫んでみたい衝動に駆られていた。広いところ=北海道。それだけの理由で、そうだ北海道だと決めたのだった。調べたら、2100円の均一周遊券を購入すれば、国鉄の普通列車乗り放題で北海道が一周できることが分かった。あとは一日に菓子パンが2個か3個買えるだけのお金を友だちから工面し、ほかに小遣いなどは持たなかったので、宿泊はすべて野宿と決めて家を出た。さすがに心配だったのか、おふくろが駅まで付いてきて、「腹が減ったらこれをしゃぶれ」と干しダラをひとつ持たしてくれた。持ち物はほかにビニールの合羽と下着の換えとナイフの入ったザックがひとつだけで、寝袋もテントもバーナーもカメラもなしの身軽さ。そういうものはまだ持っていなかった。
 上野から鈍行列車(急行は別料金だから乗れない)に乗ったら、日暮里に停まり、次は赤羽に停車した。各駅停車だから、隣の席の客はめまぐるしく入れ替わった。昼に上野を出て、翌日の昼に青森へ着いた。いまは、上野〜青森間を3時間でという時代だから、鈍行で青森まで行く人は少ないだろう。
 青函連絡船・大雪丸で津軽海峡を渡った。
 函館から乗った鈍行列車は、夜遅くに東室蘭駅に着いた。駅の待合室に寝転がっていたら、駅員が来て、「こっちへ来て寝なさい」と駅員の宿直室で寝かせてくれた。せんべい布団が暖かかった。
 翌朝、始発で札幌に出て時計台を眺め、旭川から層雲峡へ向かった。バス代がないので歩いていると、途中で大学生(中央大学)の5人組と出会い、一緒になって銀河ノ滝や流星ノ滝を眺めながら歩いた。その晩は、大学生が、「わかりゃしない」と言うので、彼らの部屋にそっと紛れ込んで一緒になって寝た。温泉にも浸かって想定外の温泉旅館泊。
 翌日は大学生と一緒に、大雪山の黒岳に登山。(ここで私の人生が動く)。
 快晴の黒岳山頂付近には雪渓があり、そこでみんなと遊んだ。生まれて初めて見る雪渓。真夏に白い雪があることに驚いた。目を見張った。〈山はすごい〉と思った。
 
 この後も北海道一周の珍道中、無銭旅行は網走、摩周湖、阿寒湖、釧路、襟裳岬、洞爺湖、昭和新山とまだまだ続くのだが、長くなるので割愛。
 この一人旅のあと、私はすぐに山岳部に入部し、本格的に山登りを目指す。丹沢、奥多摩、奥秩父から、やがて八ヶ岳、谷川岳、南アルプス、北アルプスへ。登り方も縦走から、沢登り、冬山、岩登りへと進んでいく。北岳バットレス中央稜、穂高岳屏風岩東壁、前穂高岳右岩稜登攀などに飽きたらず、67年にはヨーロッパアルプスへ遠征。マッターホルンやモンブラン、モンテローザ、グレポンなどに登頂。
 前にもどこかで書いたことがあるが、この海外登山が縁になっていまの妻とつきあいが始まり、やがて結婚し、その妻が長崎のひとだったことから、知らず知らずのうちに、あるいはうまくだまされて、もしくは洗脳されて、ついに長崎に住み着くようになってしまったのだから、元はと言えばなに、あの夏、大雪山の黒岳山頂で見た青い空と白い雪が、私の人生を決めてしまったのではないかと、しみじみ思うのだよ。