essay
  平成16年2月26日 
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
愚直に生きる
 庭の沈丁花が、ことしも咲いた。
 10年前、千葉から持ってきて植え替えた沈丁花だ。
 沈丁花には独特の香りがあるが、この花には特別の想いもある。
 沈丁花が咲くと、死んだ親父を思い出す。
 何年だったかは忘れたが、3月15日、命日だけは覚えている。
 親父は72歳で死んだ。
 その頃、私はゴルフをしていたので、「ちょうど、パー・プレーか。親父らしいや」と思った。愚直な親父、そして不肖のせがれだった。
 その愚直さがいやで、反発した。長い間、ずっと確執があった。
 職人で、仕事は真面目にしていたようだったが、あることでつまづいて大きな借金を背負い込んだ。それを取り返そうとして競輪に走り、泥沼にはまった。それまで比較的裕福な家庭だったのが、一気に赤貧状態になった。私が中学の時だった。酒におぼれる親父と、苦労する母を毎日、見た。
 野球が好きで、将来を嘱望されていた少年は、お金が無くて、志望校へ進学するすることを断念した。野球はうまかったが、世間を知らないわがままな少年は、プロ野球選手への夢を絶たれて、それを根に持ったのだった。
 
 ひどい息子だった。
 結婚してもまだ親父を許さなかった。酔って愚痴をこぼすのを見るのがいやだった。小さい頃から一度も手を上げられたことがないのに、あるとき、酔ってくだまく親父を蹴飛ばし、家の外へ放り投げたことがある。孫の顔を見にアパートへやって来た親父と喧嘩になり、追い返したこともある。この後悔は一生続くと思うが取り消すことは出来ない。
 つい最近、屋根裏を整理していたら、小学生時代の通信簿が出てきた。5年生の、「学習・行動に対する所見」にこう書いてあった。
 「よく学習しますが、落ち着きが足りません。少し乱暴なところがありますから気を付けましょう」
 ちなみに、私は覚えていないが、我が息子、長男の通信簿にも、まるで同じことが書いてあったと、妻が言う。血は争えない、か。
 でも、年を取るにつれさすがに少しは大人になって、親父が死ぬ1年ほど前から、一緒に酒を酌み交わすようになった。それが親父の長年の夢だったようだ。もう少し、早くそれに気づけばよかったといまは思う。酔っぱらいの親父を見て、絶対におれは親父のようにはならないと決めていたのに、この頃、妻や妹からときどき、「お父さんにそっくり」と言われることがある。
 
 親父は、よく外で喧嘩して帰ってきた。たいていは殴られて血だらけになって帰ってきた。
 電車に乗って、足を延ばしている若者がいると、「引っ込めろい」と蹴飛ばして、殴られる。年寄りが立っているのに若者が座っていると、「代わってやれ」と言って、睨まれる。当時は、殴られるだけで済んだが、いまだったら殺されていただろう。弱いのに、口が先に出た。息子は、口より先に手が出るタイプだった。でも、不正や、権威を笠に着る者に向かっていく性根は譲り受けた。嫌いだった親父の、そこだけは好きな部分だった。
 
 愚直とは、正直で誠実な生き方だと思う。
 明治生まれの親父は、曲がったことが嫌いだったのだと思う。人道的に間違ったことをするやつが許せなかったんだと思う。お父さんにそっくりと言われるが、私はそんなことはないと思っている。いま切実に、似たいと思う。親父のように真っ直ぐ生きたい、と思う。まだ、そうなってない。
 ことしの年賀状には、「まっつぐ生きてえ」と版画に彫った。来年は、「愚直に生きる」と彫るつもり。

 親父の死は病院で看取った。お世話になった医者と看護婦さんにお礼を言い、霊柩車に乗って用賀の家に帰った。途中、桜新町の桜並木の下をくぐった。まだ花を咲かせない桜並木にゆっくりと夕陽の木漏れ日が流れて、不謹慎にもなんだかルルーシュの映画を見ているようで、悲しみもわかず涙も出ず、何も考えず、ただぼうっと色の消えた木の陰を眺めていた。
 通夜の晩、線香の匂いに混じって、庭には沈丁花の香りが漂っていた。