essay
  平成22年10月28日 40
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
妹よ。
 どういう風が吹いたのか。
 「お兄ちゃん、温泉行かない?」と突然、妹から声がかかった。
 20年ほど前、こっちから声をかけて、うちの家族と妹の家族、それに母も誘ってホノルルマラソンに行ったことがあるが、普段はほとんど交流がない。別に仲が悪いわけではなく、昔からそういう付き合い方なのだ。私たちが長崎へ来てかれこれ16年になるが、その間、妹たちは一度も顔を見せたことがない。こっちから来いとも言わない。
 私には姉もいて、その姉が母と一緒に住んでいる。姉妹とも神奈川にいるのだが、姉のほうが都心に近いので、私が上京した際はいつも姉の家に泊まらせてもらう。それだけの理由で妹の家に行くことはほとんどないのである。
 妹は仕事をしているが、その合間を縫って姉の家に行き、母の風呂入れなどの世話をしている。3人きょうだいの中ではいちばん人の面倒見がよく、気持ちも優しい。しかし性格はがらっぱちで、言葉は荒い。父親の血を一手に引いてしまっている。
 「うん、行こうか」と返事をすると、箱根へ連れていってくれた。
 たまたま上京していた時だったので、私たち夫婦と妹夫婦、4人で行こうと話をしているところへ「どうして私を連れていってくれないのよ」と母が割り込んできて、結局5人での道行になった。妹の旦那が運転手。
 私も旅行好きであちこち出かけるが、泊まりはだいたい安宿と決めている。それがポリシー。だから妹が「箱根はよく知っているから宿は私に任せて」と言ったとき、てっきり民宿か、あるいは友人のコネによる保養所かなんかだろうと、たかをくくっていた。さらに自分のいつものものさしで〈これくらいあれば足りるだろう〉というだけのお札を財布に入れて「いや、宿代は俺が持つから」と妙な兄貴風まで吹かしていたのだった(そういう格好をつけるところが私のいけないところ)。
 ところが、宿に着いてびっくり。
 「なにこれ、ほんまもんの旅館じゃん。え、ここへ泊まるの?!」。
 いくら安宿をモットーとしている身とはいえ、風格佇まいを見ればそれがどれほどの旅館かぐらいは見当がつく。
 「兄貴さん、ここは皇太子も泊まったことがあるし、なんでも西郷隆盛と木戸孝允が密談したと言われている由緒ある旅館なんですよ」と義弟。
 〈おいおい、そういうのはおれはどうでもいいの。それより、こんな超高級旅館じゃおれたちふたり分の宿代しか払えないよ。これじゃ割り勘しかねえぞ〉とビビる。
 馬鹿ていねいな従業員に連れられ迷路のような廊下を通り部屋へ案内されてさらに目をぱちくり。広い部屋、柔らかい間接照明、奥の襖を開ければお殿様が寝るような豪奢な寝室、部屋続きでプライベートな露天風呂まで付いている。妹のやつ、何を考えているのだろう。
 食事は別棟2階の割烹料理屋風の個室でとるのだが、そこへ辿りつくまでが大騒動。どういうわけでそうなっているのか分からないのだが、廊下が上がったり下がったりの階段だらけ。母の足が弱っているのでその都度、誰かが支えなければならないのだ。
 しかし、そのおかげで私は初めての親孝行ができたのだから、そんな難しい旅館をとってくれた妹に深く感謝しなければならないのかもしれない。生まれて初めて、母の手をとって歩いたのである。
 97歳の母の手をとって階段を昇り降りする68歳の息子。老老介護の図ではあるけれど、別に恥ずかしさなどなく、素直に手が伸びた。そのあとにぞろぞろ続く妻や妹夫婦。
 〈そうか、妹はこれを一度、兄貴にやらせたかったのか〉
 うん、そうかもしれない。母を置き去りにして自分たちだけで勝手に田舎暮らしなどをしていい気になっている、とまでは思っていないだろうが、ふだん離れ離れになっている母と長男に、いい思い出をつくらせてあげたいと考えたのに違いない。妹はいつだってそういうやつなのだ。そうだ、そうだったんだ。ありがとう、妹よ。
 父の晩年、いちばんかいがいしく父の面倒を見たのも妹だった。母も姉も私も父を嫌っていた。
 「お兄ちゃんは、酔っ払ったお父さんを庭に放り出したもんね」「そうね…」
 「あれはこたえたって、言ってたよ」「…」
 「私はいつも寝ないで待っていた。外で私の名前を叫んでいるので出て行くと、溝にアタマを突っ込んで動けないでいるの。覚えてる?」「いや、初めて聞いた」
 「でも、お兄ちゃんは私が高校に受かったとき万年筆を買ってくれた」「そーお?」
 「その万年筆、翌日ペン先を壊しちゃったの」「へー」
 「映画にも連れていってくれたよ」「ほんとに?」
 「お小遣いもよくくれたし」「えー、ぜんぜん憶えてないなあ」
 その夜、遅くまで昔話に花が咲いた。