essay
  平成16年5月14日 8
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
キャッチボールの相手はいない。
 寝込むなんてことは滅多にないのに、慣れない仕事をしたせいだろうか。
 39、4度の熱が出て、三日間、布団の中でうなった。
 連日、会議に出たり、書類を書いたり、大勢の前で挨拶をしたりが続いた。そんなことはぜんぶ十年前に捨ててきたのに。だから、カラダもアタマもびっくりしちゃったのだろう。
 昔は、走ることでそんなストレスは解消できていたのだけれど、最近はたるんで、なんだかんだと言い訳しながら走ることをさぼってきたので、そのツケがきたのに違いない。
 少し反省して、今朝は久しぶりにいい汗をかいた。夜中に布団の中でかく汗も、早朝走ってかく汗も同じ汗だろうに、汗をかいたあとの気持ちが違う。その気持ちの良いほうの汗を手で拭きながら、海を眺める。
 
 いい香りがする。 
 みかんの花だ。
 この季節、みかんの花の香りで目が覚める。半島全体がいま、みかんの花の香りに包まれている。尾戸はみかんの名産地。半島中がみかん園だ。我が家もみかん園の中にある。
 遠くにかすむ船。
 『みかんの花咲く丘』、そのままの世界。これはいつ頃の歌だったろう。戦後まもなくだったか。そう、少年時代。あの頃は、野球ばっかりしていた。明けても暮れても野球だった。
 小学生の頃、後楽園球場によく通った。親父が連れて行ってくれた。いつも巨人VS阪神戦だった。川上がいて、青田がいて、藤村がいた。
 (ゆっくりと、独特のイントネーションで)「後攻ぉ、読売巨人軍のぉ、先発ぅ、ラインアップをお知らせ致します。1番 レフト 与那嶺 背番号 7。 2番 セカンド 千葉 背番号 3。 3番 センター 青田 背番号 23。 4番 ファースト 川上 背番号 16…」。いまでも、ソラで言える。いや、なぜこんなことを言い出したかというと、つい先日、このアナウンスを聞いた(ような気がした)のだ。
 場所は、ビッグN・長崎県営野球場。(巨人VSダイエー戦で満員になったことがある)。たまたまここを訪れる機会があって、その折、背広姿ではあったがグランドに出させてもらったのだった。
 
 平日の朝の誰もいない野球場。今風の人工芝ではあったが、ドームでないのがよかった。野球場にドームはいけない。野球場を閉め切っちゃいけない。空と風と自然の光があってこその野球場だ。雨が降ったら、濡れてやればいいじゃないの。突風で土埃が舞ったら、タイムをかければいいじゃないの。なんで野球場に屋根がいるんだよ。カーンと響く打球音が自然の空気を切り裂くから、胸を躍らすんだろうが。小さな白球が夜空に舞うから、興奮するんだろうが。(おさえて、おさえて)。
 マウンドに立った。高さが何とも言えない。右足をプレートに置き、ホームベースを見る。こんなに近かったかな、と思う。何十年ぶりだろう。ボールもグローブも持っていなかったが、ボールを投げたい衝動にかられた。投げる真似をした。
 「野球、やってたんですか」。案内してくれた責任者が笑った。
 「野球小僧で、将来はプロ野球の選手になるんだと決めていたんですよ」。
 野球場って、なんて素晴らしいんだろう。少年の夢がある。男のロマンがある。
 ダッグアウトも見せてもらう。室内の投球練習場にも入れてもらった。投球練習場の小さな窓から、グランドが見渡せる。グランドへ通じるドアから、明るい光が差し込んでくる。ここからグランドへ出るとき、選手は何を考えるのだろう。松井は、初めてのヤンキー・スタジアムで何を想ったのだろうか。誰もいない球場はシンと静まっているけれど、なんだか歓声が聞こえてくるような錯覚にとらわれる。ロッカールームものぞいた。勝った試合、負けた試合、ゲームセットのあと、選手はこのベンチで何を語るのか。ロッカールームには、もうひとつのドラマがあるような気がする。いいな。
 
 雑誌の『Number』だったか、もしかしたら違っているかもしれないが、昔、「千葉茂のグローブ」を見たことがある。いまのグローブとは違う。私が少年の頃、使っていたのがそれと同じタイプのものだった。自分でアンコを抜いて使いやすくした。薄くした分、捕球の時にひどく痛かったが、その痛さが妙によかった。あのグローブはどこへ行ってしまったのだろう。それより、誰があのグローブを買ってくれたのだろう。親父か、おふくろか。おふくろと言えば、いつも泥だらけのユニフォームをタライと洗濯板で洗ってくれた。こびりついた草の汁がとれないと言っていたのを思い出す。事情があって、高校で野球をやめた。

 尾戸へ来てすぐ、ソフトボールのチームに誘われて、4番を任された。毎週、町内のリーグ戦があったので、いっぺんに町内の元気印の人たちと知り合うことが出来た。敵チームの郵便配達人が、いつも畑を通りかかると止まって、「夕べはいいヒットを打ったね」と声をかけてくれた。野球をやっていてよかった。
 
 さっき、グローブにワセリンをすり込んだ。
 でも、キャッチボールの相手はいない。