平成22年8月2日 Vol 183
よかさ!
手をつなぐ。
 制服を着た男子高校生と、その同級生と見える女子高生が手をつないで歩いている光景をこの頃よく見かけるようになった。もう何度も見ているので最近はなんとも思わなくなったが、ちょっと前は驚いたものだ。車を運転していてそんな光景を見たときなど、降りて行って「この野郎!」と男の胸ぐらをつかみ、横っ面を張り倒してやろうかと思ったこともある。理性があるからさすがにそんな乱暴なことはしなかったけれども、まだ理性など持ち合わせていなかった若かりしとき、そうあれは中学3年の時だったが、父ちゃんではなく、一緒にいた父ちゃんの友だちなんか「貴様!」と叫んで昔の憲兵みたいなことをしたことがあるのである。しかも、その時の二人は手をつないでなどいずただ並んで歩いていただけなのだ。
 今はどうか知らないが、当時の体育会育ちには、男と女が白昼手をつないで歩くなど許せないことだった。白昼でなければよいという考えもなくはなかったが、父ちゃんはずっと後になるまでそういうことはしなかったし、ずっと後を過ぎてもしなかった。体育会系を通したのだ。実際、妻とだって結婚前も、新婚旅行中も、そのあとも手をつないで歩いたことなど一度もない。いや、一度だけあるか。ま、いいや。
 昔の話はさておいて、先日、野暮用で市内に出かけた折のこと、なんだかとてもいい光景を目にして、ここでそのことを書こうとしたことがあった。更新のさぼり癖がついているのでそのままになっていた
が一昨日、新聞を見ていたらそのときの光景とほとんど同じ写真が載っていたので、おっと目を見張った。全日本写真展2010「現代を撮る」で銀賞を受賞した「絆」という作品で、二人のお年寄りの男女が手をつないで歩いている後姿を写している。たぶん長年連れ添った夫婦なのだろう。おじいさんのほうが足が弱っているように見える。それをおばあさんが手を握って支えている。おじいさんの右手には紙袋。父ちゃんが見た老夫婦は二人とも傘を持っていたから写真の二人とは別人だと思うが、見た感じはほとんど一緒。講評には「行く末を想像させる。先を案じながらも、がんばっていこうというメッセージが背中から伝わってくる。光のとらえ方がうまい」とある。そうなのだ。父ちゃんが見た二人は、そうやって長崎の石橋を渡っていたのだった。
 そして、もうひとつ驚いたのがきょう。朝日新聞に「ひととき」という読者投稿の欄があって、3か月に1回くらいの割合で最優秀賞が発表されるのだが、それに今回選ばれたのが山口県のMさん(59)という人が書いた「手をつないで歩く」という作品。全文を紹介できないのが残念だが、手をつないでいるところを「仲がいいんですね」と言われ、「いえ、手を離すと倒れるので、いやおうなくつないでるんですよ」と夫が応える。夫は障害でつえが持てない。18年一緒にいて3年前から手を離さなくなった。で、妻がつえになった。お父さん、これからもずっと手を離さないから安心していいよ。私を受け入れてくれたあなたにお返ししていきますから、大丈夫。という内容。これだけでは良さが伝わらないが、とにかく文章がうまく、さすが最優秀賞と納得させられる。「夫に感謝しつえ代わり」。「触れ合いで深まる夫婦愛」。そういうものがずんと伝わってくる。
 そう、年をとったら手をつないでいいのだ。そうだ、やせ我慢せずに父ちゃんも手をつないでもらおう。歩いていて何でもない小さな段差にけつまずくし、マラソンの練習をしていて転んで顔をコンクリートにぶつけたこともある。この間は畑でも転んだ。知り合いの医者からは「いままでのイメージを捨てなさい」と言われた。もう、いつまでも体育会系ではないのだ。
 さて、そこでだ。同じ男女が手をつなぐ光景を見て、片や高校生にはけしからんと感じ、片やお年寄りのそれにはいい光景と映ったのはなぜだったのか。違いははっきりしている。お年寄りに「いいな」と感じたのはそこに「労り」を感じたからである。労わるとは、やさしく世話をしたり、なぐさめたりすること、ねぎらうことだ。高校生にそんな気持ちがあるか。ありはしないだろう。あるのは異性への意識だけ。労りの気持ちを持って相手の手に触れるにはまだ40年も50年も早いのである。
 じゃ、年をとれば誰でも手をつないでいいのかと言えばそれも違う。昔、宇宙人とか呼ばれてばかにされた首相がいたが、その彼がいつだったか外遊して帰国し飛行機のタラップを降りてくる際、その夫人(ちゃらちゃらした)と手をつないで降りてくる姿がテレビに映った。それを見て、父ちゃん思わず「お前ら、恥ずかしくないのか」と吐き捨ててしまった。オバマ大統領ならいい。それが当たり前の国の人なのだから。でも、日本はそうじゃないでしょう。サル真似をしちゃいけません。なぜいけないのか。サマになってないからである。仮にその宇宙人夫妻が手をつないだ後姿を見せたとしよう。それを写真に写して「労り」を感じさせると思うかい。寂しくなったいまなら、あるいは感じさせるかもしれない。でも、いくらがんばっても「絆」という題名で銀賞はとれないだろう。