関わりに困ったら…

どのように理解したらいいかわからない。何て声かけすればいいかわからない。参考にして、いいところだけ読んでみてください。

登校拒否、不登校編

子どもが学校へ行かない

学校へ行けない、行きたくない時、子どもは何らかの形でサインを出しています。
一番わかりやすいのは、はっきりと言葉で伝えてくれること。
「○○だから学校へ行きたくない」、というように。

しかし、上記のようにはっきりと伝えてくれることはめったにありません。
そこには、「自分の気持ちや感情を言葉にできないどう言葉にしていいのかわからない」「学校に行きたくないと言うと怒られるかもしれない」「親に言うと心配かけてしまうかもしれない」など、
はっきりと伝えられないことにも理由があるのです。

言葉にできない、言葉にならない場合、体に出てしまうことがあります。
学校へ行く時間になると腹痛や頭痛が出る。吐いてしまう場合もあります。

そういう時は、学校を休むという選択肢があることを伝えてあげてほしいです。
「一日休ませるとズルズルいくんじゃないか」「サボりかもしれない」と思う方も多いでしょう。

そもそも学校が楽しいところであれば、子どもは自然と学校へ行きます。
仮に何日か休んだとしても、学校へ行くことがつらくなければ、自然と復学します。

そうならないということは何か理由があり、その理由によっては、子どもはものすごく疲弊し、苦しんでいる可能性があります。
そのような状態で登校させることは、子どもを追い詰めることに他なりません。

昼夜逆転してる

不登校状態になると、生活のリズムが乱れ、昼夜逆転する場合があります。
朝になっても起きてこず、昼過ぎに起きだして夜は遅くまで起きている。

「夜ちゃんと寝ないから朝起きられなくて学校へ行けないんじゃないの?」という疑問の声もよくあります。

昼夜逆転にもちゃんと理由があります。
理由は人それぞれいろいろあると思いますが、まず考えられるのは「夜眠れない」ということです。
不安が強くなると眠れなくなる場合があります。
夜布団に入り、いろいろ考えているうちに不安になってきて、寝ようと思っても眠れない。
結果朝まで寝付けず、昼間に寝てしまうことになる。
この場合はまだ昼間にでも眠れているのでいいですが、何日もほとんど眠れないという場合は、受診も考えた方がいいと思います。

また、「朝がイヤ」ということもあります。
朝というのは、多くの人が動き出す時間です。
イヤでも「本来なら行くべき学校に行けていない自分」を鮮明に見せつけられる時間です。
その時間は本当につらく、苦しいものです。
だから朝を感じたくないために、寝て過ごすのです。
これはある意味回避行動だと思います。
余計に自分自身を追い込まないための行動です。

その反対に「夜がイイ」ということもあります。
夜は大抵の場合静かで、家族も眠っていることが多いでしょう。
誰の視線も気にすることなく、引け目も昼間よりは感じることも少ないのかもしれません。
本来なら学校に行っているであろう時間は、なんだかいろいろやりにくいものです。
でも夜なら、その「やりにくさ」が軽減され、少しは動きやすい場合があります。
そのため夜に起きているので、昼間に寝てしまいます。

良い、悪いは別にして、昼夜逆転などの行動は、自分自身を保つための術です。
少なくとも「昼夜逆転しているから朝から学校へ行けない」ではなく、「理由があって学校へ行けない自分自身を守るために昼夜逆転になる」という場合がほとんどです。
そのため、その子自身がやりたいことや行きたいところが朝からある場合は、早起きできたりします。
このままズルズルいくんじゃないかと考えがちですが、目的ができれば生活リズムは戻ります。

「生活リズムの改善が不登校状態を登校状態に戻す」というのは、根本の部分を無視した方法に過ぎません。
夜眠れない、夜起きてしまうことのみを問題視してしまって、そうなってしまう理由に焦点が当たっていないからです。
成長期に昼夜逆転というのは、身体の発育上は少し気になることもありますが、その行動にも理由があると理解したうえで声をかけてあげてください。

暴れる

暴言、暴力、物を壊す。
そういう方法で、苦しみやヘルプを表現する子どももいます。

その対象になってしまった人は、本当に大変だと思います。
まずは、対象となっている人の安全が第一にはなります。それが前提での話です。

子どもも望んで暴れているわけではありません。
それぞれに理由があります。
その行動が、ストレスや言葉にできない思い、モヤモヤによるための発散の行動なのか。
「自分を見てほしい」という注目をひくための行動なのか。
本当にぶつけたい相手は別にいるが、その相手にはぶつけられないため、その相手にぶつける代わりにしているのか。
「わかってほしい」という、理解や共感を求めている行動なのか。
理由はいろいろ考えられます。

例えば、物を壊すという行動で言えば、その壊した物は何でしょうか。
壊したら子ども自身が困る物なのか。家族が困る物なのか。特に誰も困らない物なのか。
高価な物か安価な物か。投げつけてくる場合は、固い物なのか柔らかい物なのか。
当ててくるのか、当ててはこないのか。
そういった部分は、子どもの気持ちを想像する手がかりになります。

子どもにとっては理由があっての行動なので、頭ごなしに「やってはいけない」と言われると、余計苦しくなります。
その行動自体は否定せずに、でも「これだけはやめてほしい」ということがあれば、はっきりと伝えましょう。
その時にはなるべく「そのかわり、こうしてみたら」という提案のようなものがあるといいと思います。
例えば、「サンドバックのようなものを用意しようか」という提案も、方法のひとつかもしれません。

好き勝手に暴れているように見えるかもしれませんが、冷静になった時に自分を責めたりしていることが多いです。

毎朝学校に「今日も休みます」という連絡をするのがきつい

学校を欠席する場合、大抵は朝から「休みます」という連絡を入れなければいけません。
しかし子どもが不登校になると、その連絡を毎朝毎朝するたびに、親の方が苦しくなることは珍しくありません。
電話対応してくれる学校側の方の理解があればいいですが、心ない言葉をかけられることも、時にあります。

そんな時は「毎朝連絡するのが自分にとって苦痛である」ことを伝えましょう。
そして「今後は、登校する時に連絡をする」という提案をしてみて下さい。
それでもわかってくれない時には、「不登校に詳しい人がそういう風に言っていたので」と、責任をこのHPに丸投げしてください。

子どもが不登校状態の時に学校と付き合っていくのは、本当に大変なことです。
担任の先生や、校長先生、学校として理解があれば強力な味方になりますが、そうでない場合もあります。

学校とのやりとりで困った場合には、親の会に来てみて下さい。
いろんな方法やアイデアを聞くことができると思います。
そういったことを聞いてみてから、どう行動するかを考えても遅くはないと思います。

もしかしてパソコン依存症?ゲーム依存症?

学校へ通うのは、今の子どもの状態や学校の環境では難しいと考え、休息のためにもとりあえず学校へ行かないことは受け止めたという親の方も多いと思います。
まずはゆっくり休むこと。傷を癒すこと。それが一番大事よね、と思って見守っていると、ある時から子どもがパソコン三昧ゲーム三昧。
スマホ三昧というのもあるかもしれませんね。

子どもが苦しみの中にいるということが頭の中ではわかっていたとしても、パソコンに向かっている姿を見ると、感情がざわざわし出す親の方も多いのではないでしょうか。
パソコンやゲームに一日の大半の時間を費やしている姿を見ると、なんとなく元気になったんじゃないかとか、怠けているだけなんじゃないかとか、目が悪くなっていくんじゃないかとか、このままひきこもってしまうのではと、不安な気持ちが出てくることは、おかしなことではありません。

しかし、その行動にも理由や意味があるのです。
学校に行かずに家にいるようになると、いろいろと考えてしまいます。
考える内容は人によってかわるでしょうが、その多くはとってもネガティブな内容です。
「他の同年代の人と同じことができないダメな自分」「親の期待を裏切って、悲しませている最低な自分」「これからどうしよう」「なんで自分がこんな目に」などなど。

自分自身を責めることが多いと思います。
また、学校などで理不尽な攻撃、加害を受けた場合は、自分を責めるというよりも、周りへの不信感や期待を裏切られたという絶望感、受けた傷が蘇ってくることによる二次的な苦しみもあります。
とにかく心の中はざわついていて、このままでいると自分がおかしくなってしまうような、そんな感覚さえあります。

パソコンやゲーム(それらに限らず様々な娯楽など)に熱中することで、そんな現実や自分から、少し距離をとることができます。現実逃避のようなものです。
現実逃避というと、真剣に現在やこれからを考えていない姿のように思えますが、そうではありません。
この現実逃避の手段や時間がしっかり確保されていなければ、常に現実とダメな自分のことばかり考えたり見えたりして、休むどころか余計に疲れてしまいます。

そのことを考えずにパソコンやゲームの時間を子どもから奪ってしまうと、休むという機会を減らしてしまう可能性があるのです。
「学校へ行かない」=「本当に心が休まる」ではありません。

それでも子どもの行動が、あまりにも行き過ぎた行動だと思った場合は、そのことを伝えてみましょう。
伝える時に気をつけることは、「追い詰めないこと」「その行動には理由があることをわかっていること」「社会的な価値観にとらわれずに、親自身の言葉で伝えること」です。

全然勉強しないのが心配

子どもが悩んだり苦しい思いを抱えていることがわかり、一旦学校とは距離を取り休ませることにしました。

でもいつか学校へ戻った時に勉強についていけていないと、そのせいでまた学校へ行けなくなるかもしれない。
または、中学3年生や高校3年生という、まさに受験の年であり、学校には行っていなくても次の進路のために勉強だけはしておいた方がいい。
もしくは、将来何かやりたい仕事が見つかった時に、何の学もなければその道に進むことが難しくなるから、最低限の基礎学力だけは身に付けておいてほしい。
などなど。

家にいるのはいいけれど、全く勉強していないと心配ですよね。
他の子にどんどん置いていかれているような気がして、せめて勉強くらいは、1日1時間くらいは・・・って思っている親の方も多いかもしれません。

先に紹介した勉強をしておいてほしい理由(あくまでも一例ですが)。
「いつか学校へ戻った時に~」「次の進路のために~」「将来何かやりたい仕事が見つかった時に~」。
全部先の話ですよね。
他の理由でも、勉強をしておいてほしいと思っている親の方もいらっしゃると思いますが、その理由は将来のため、先のためではありませんか?

つまり「勉強」というワードは、子どもにとって「将来」を意識させられるものなのです。
学校に行っていない子どもにとって、「将来のこと」は大きな不安となっています。そしてさらに言えば、将来のことを考えること自体が困難であることが多いのです。

学校に行けない子どもたちの多くは、今日という一日、明日という一日を過ごすことに精一杯です。
学校へ行けていないことで自分を否定し、時には人から否定され、過去の恐怖が蘇ってくることへの不安を抱え、他人と比べて自分を貶め、なぜ自分だけがこんな苦しみを抱えているのかと絶望し、様々なことが頭と心を駆け巡って、そんな日々です。
そんな今日を過ごすだけでもいっぱいいっぱいの、嵐のような日々の中では、冷静に将来のことを考えるのはとても難しいことです。

将来への不安を取り除くために「勉強しておいた方がいいのでは」と思われるでしょうが、それ以上に不安をあおる可能性の方が高いと思います。
大切なのは子どもの今を見つめてあげることです。
今の悩み、今の苦しみをくぐり抜けた先にしか将来はありません。
将来のことを考えるということは、まず今を共に過ごすところから始まります。
その理解なくしての「勉強」という言葉は、正確な意図をもって子どもに伝わることはないでしょう。

精神科等の受診を考えている、すすめられた

学校に行けなくて子どもが家にいる時、不登校状態でも元気そうに見えれば、まだ少しは安心ですよね。
しかし、なかなか眠れなかったり、落ち込んでいたり、ちょっと挙動不審だったりすると、心配になってきます。
精神科等で一度診てもらった方が・・・と思う方も多いのではないでしょうか。
もしかしたら親戚や知人、学校の先生などに受診をすすめられた方もいらっしゃるかもしれません。

最近は、精神科や心療内科などを受診することに対する理解も深まってきたように思います。
それでもまだ抵抗がある方も多いでしょう。
そして、それはおとなだけでなく、子どもも同じです。
まず大事なことは、子ども自身が受診する必要があると感じているのかどうかです。

「ちょっと病院で診てもらおうか」という言葉かけに対して、子どもが「そうすれば少し楽になるかもしれない」と思えればいいのですが、反対に「学校に行けない自分は病院に行かないといけないほどおかしな奴なんだ」と思われてしまう可能性もあります。
おとなは受診も手段のひとつとわかっているでしょうが、子どもにしてみれば、やはり自分は他とは違う異質な存在なのだと捉えてしまうかもしれません。
受診を誘いかける時にはこの点に注意してください。

そしてもうひとつ。
受診を考える時重要なのが、「症状の改善」と「原因解決」がごっちゃになってしまわないことです。
受診を考えるということは、それなりの症状のようなものが出ているということだと思います。
手を異常に洗ったり、人が触ったものが触れなくなったりと潔癖症のように見える。無気力で一日の大半を布団で過ごし、生気を感じられない鬱のように見える。出かける時に忘れ物がないか、鍵はかけたかなど、日常の細かいところが気になって動きがとれなくなることがある。などなど、様々あるでしょう。

例えば鬱のように見える場合、「その症状の改善=不登校ではなくなる」ということではありません。
細かく言えば、「鬱のような状態になる→それによって学校に行けなくなる」と考えてしまえば、不登校の原因が鬱のような状態であるからということになります。
しかし大切なのは、なぜ鬱のような状態になってしまったのかということです。
つまり「何らかの要因がある→鬱のような状態になる→学校へ行けなくなる」と考える必要があり、受診によって得られる効果はあくまでも「鬱のような状態になる」をわずかずつ改善していける可能性があるということなのです。これは他の症状に関してもいえます。
子どもの症状は、何らかの要因による苦しさやしんどさの表現のひとつと捉えることもできるので、症状のみに目を向けてしまうと、根本を見逃してしまいます。

症状の改善や対策を知ることは大切なことで、現状を少しずつ楽にしていきます。
そのためにも専門性のある受診は、ひとつの大切な方法です。
しかし、子どもの抱えている苦しみや不安が減っていけば、症状が少しずつ出なくなっていくということもあります。
受診のみに頼るのではなく、受診はあくまでも方法のひとつと捉えることが大切だと思います。
そして、精神科や心療内科といっても、最初の一軒を信用し続けるのではなく、ちょっと合わないかなと思ったらセカンドオピニオンを考えましょう。

進学等の話をスムーズにするためには

学校に行けずに家で過ごす子どもに対して、“これから”の話をすることは簡単なことではありません。
多くの子どもたちにとっては、将来とはあくまで将来のことであり、まずは今この瞬間に抱えている悩みや不安こそが、なんとかすべきことであるからです。
親の方の中にも、今家で安定して過ごしている子どもに対して、あえてこちらからそれを揺らすようなことは言いたくないと思う方も多いのではないでしょうか。
しかし、時期やタイミングによっては、話さなければならないだろうという場合もあります。
そんな時にどうすれば、スムーズに話ができるのでしょうか。

何でもない話はできるのに、これからの話をしようとすると、子どもの反応がきつくなったり、自室に戻ってしまうというのは、珍しいことではありません。
前提として理解しておいてほしいのは、学校へ行っていない子どもにとって、これからの話をされるのはきついことだということです。
なぜきついのかと言えば、自分が馴染めなかったり、理不尽な攻撃を受けた学校という場所に、“結局戻るのか戻らないのか”という話がほとんどだからです。
親からすれば、今行っている学校ではなく、例えば進学で中学校から高校に変わったり、転校で別の学校へ行ったりという提案をしているので、「今までとは違うんだよ」と伝えているつもりかもしれません。
周りから見れば違う学校となりますが、苦しんでいる子どもにとっては、かつての学校がぬぐい切れない、そんなに簡単に割り切れないということは事実です。

また、全日制ではなく、通信制などを紹介する場合もあると思います。
毎日毎日決まった時間に行くのが難しそうであれば、通信制ならその部分は気持ちが軽くなるんじゃないかと提案するのでしょうが、これはハードルを下げられたように感じます。
そうは思っていなくても、「全日制よりは楽な通信制はどう?」と聞かれれば、普通に学校に通うのをあきらめられたように感じ、親としては前向きな提案のつもりが、子どもにとっては「このくらいならさすがにできるでしょ」と言われたように受け止められてしまう場合もあります。
そうなってしまっては、通信制のメリットの部分に、子ども自身が価値を見出せなくなってしまいます。

このように、不登校中の子どもにこれからの話をするのは、難しいし気をつかいます。
そしてそれは親の側が、「子どもと一緒にこれからを考えていく」という姿勢になりきっていないことが大きな理由だと思います。
では、「子どもと一緒にこれからを考えていく」とはどういうことか。

そのために大切にしていただきたいのが、「入学を目標にしない」ということです。
例えば、中学3年生で学校に行っていない子どもの場合、高校入学を目標にしてしまうと、あと1年弱しか時間がありません。
その間に高校進学の話をするとなれば、もうなりふりかまってはいられないでしょう。とりあえず入学、となってしまいがちです。

でもそうではなく、目線をあげてみてください。
将来何がしたいのか。まずはそこから話してみましょう。
はじめはたくさん出てくるかもしれません。または、夢物語みたいなものもあるでしょう。
それらについていろいろ話している中で、話の具体性や、話している時間の長さから、より多く興味を持ってそうな夢が見えてくると思います。
そこから逆算しながら、では今はこれが必要かもねと話してみて下さい。
あくまでも、その夢にどうすれば近づけるかの話ですので、学校復帰のみが道ではないことが親子ともみえてくるかもしれません。

具体的な夢などが出てこないことのほうが多いでしょう。その時は、そういうものでなくてかまいません。
「○○について勉強してみたい」「サークル活動に興味がある」「アルバイトをやってみたい」「○○へ行きたい」など、具体的に仕事などに結びつかなくてもいいのです。
そういう言葉を手掛かりに、学校復帰や進学をあくまでも手段のひとつとしながら話を進めていくことが大切です。

つまり“これから”の話というのは、子どもの「○○したい」という思いを聞いていくということなのです。
それなくしては、親の考える子ども像を押し付けているに過ぎません。
日々の関わりの中から、子どもの「○○したい」という声を大切にしていれば、“これから”の話が大きな軋轢を生むことはないと思います。

そして何にしても、追い詰めないということは大切ですので、どんなに時期が迫っていようとも、子どもが話に応じない場合は、その応じない姿を尊重してあげてください。

 

兄弟姉妹との関わり(不登校編)

わが子が不登校になった、とは言っても、子どもって一人だけとは限りませんよね。
不登校になった子ども以外にもわが子はいて、もしかしたらその子たちは学校に通っているかもしれません。
そんな状態の中で不登校中の子どもに「学校に行かなくていいよ」と言ってしまうと、兄弟姉妹に「何で私は学校に行かなきゃいけないの?」と聞かれてしまいそうで言えない、という親の方も多いと思います。
他にも「どうしてお兄ちゃん(弟や姉妹でも)は学校に行ってないの?」と聞かれて説明に困ったり、兄弟姉妹が学校に行っている時間に不登校中の子どもだけ家で遊んでいる姿に、複雑な思いの方も多いのではないでしょうか。
上の子が不登校になった場合、「なんとしても下の子は不登校にはならないようにしよう」と考えて、下の子に強く当たったり、ということもあるかもしれません。

根本的なことを言えば、学校が楽しい場所であれば子どもは学校へ行きます。
例えば上の子が不登校中で家にいる場合、その姿を羨ましいと思った下の子が学校に行きたくないと言い出したとします。
当然学校に行きたくないというその理由が何かあるのでしょうから、学校での様子などを子ども自身に聞いてみたり、学校側に確認してみることは大切です。
しかし、ただ家で過ごしている上の子が羨ましいだけという可能性もあります。
でも、不登校している姿って他人から見れば楽そうに見えるかもしれませんが、実際はつらく、苦しいことの方が多いのです。子どもが学校に行かない、行けないということは、それだけ大きな理由があります。
休んでいる姿が羨ましいから休みたいというのであれば、休ませてあげたらどうでしょうか。その中で上の子の悩んでいる姿や苦しんでいる姿を見ることもあるでしょう。
それでも学校に行かないのであれば、それだけの理由が学校生活にあるということです。

子どもたちの中にひとり不登校中の子どもがいると、どうしてもその子に目がいってしまいがちだと思います。
他の子は学校に行っているしとりあえず大丈夫、まずは不登校中の子どもを、と考えてしまうのだと思います。
親からすれば、わかりやすく悩んでいる姿や苦しんでいる姿を見せる子ども(不登校中の子ども)を重点的にケアしようとするのは、当たり前のことかもしれません。
しかしその姿が、兄弟姉妹から見れば、不公平に思える時もあるのです。
「僕は頑張って学校に行ってるのに」「○○(不登校中の子ども)にばっかり優しくしてずるい」と思われたり、親があまりにも不登校中の子どもの対応で大変そうにしていれば、自分が更に親に負担をかけてはいけないと、自ら身を引いて悩みや不安などを隠してしまう子どももいます。

僕の考えは、不登校中の子どもがいる時こそ、親は兄弟姉妹との時間を大切にした方がいい、というものです。
不登校中の子どもばかりに目がいってしまう、兄弟姉妹にそう見られてしまうというのは、仕方がないことだと思います。
だからこそ意識して、不登校中の子ども以外の子どもとの時間をつくった方がいいのです。
それが、「あなたのこともちゃんと見ているんだよ」というメッセージにもなります。
そしてそういう時間に、「何か悩んだり不安だったりしたらいつでも聞くからね」と伝えられるといいですね。
その間に不登校中の子どもから目が離れてしまうのも、悪いことではありません。

「どうしてお兄ちゃん(弟や姉妹でも)は学校に行ってないの?」と聞かれた場合。
言えそうであれば、そのままを伝えられるといいのですが、その際には不登校中の子どもに「何で行ってないのかって聞かれるんだけど、なんて答えたらいいかな」って聞いてみるのもいいと思います。
そして兄弟姉妹には、あなたがもし学校に行くのがつらく、苦しくなったら、いつでも言ってねと伝えられるといいと思います。

進学の時期に何をするべきか

以前「進学等の話をスムーズにするためには」というテーマを取り上げました。
今回も似たようなテーマではありますが、多少具体的に周囲にできる準備について考えていきたいと思います。

小学校6年生、中学校3年生、高校3年生など、年齢的な節目の時期に学校に行けていないという子どももいます。
特に中学校3年生の子どものいる親の方に多いのですが、年末(12月頃)が近づくと、多くの方が焦りを感じています。
というのも、小学校から中学校への進学はわりとスムーズにいく場合もありますが、中学校から高校へ進学する際には、必ずと言っていいほど入学試験があります。
その試験を受けるためには、入学願書の提出が必要なのです。
そして願書提出には期限があります。その期限を過ぎれば、願書の提出はかなわず、入学試験が受けられません。
だからこそ早め早めにそのことを子どもに伝え、行けそうな、または合格しそうな高校を探してきては子どもに提示しているけれど、子どもに動きがないということが多いと思います。

親の方の中にも、子どもに対して酷なことを言っていると思われている方も多いでしょう。
子どもの現状をみるに、進学先を決めるという決断をできそうな状態ではない。しかし、期限を過ぎてから「願書提出しておけばよかった」となるよりは、願書提出した後で「やっぱり試験受けない」となる方がまだいいのではないだろうか。そう思いますよね。

子どもの方も、期限があることも、進学することの重要性もちゃんと理解しています。
だけど、簡単に決断できないのも事実で、そうなればなんて答えていいのかわからなくなります。
行きたくないわけじゃないけど、行けるかどうかは不安で、願書提出してしまってはもう後戻りできないような気もして、この時期こそ子どもの心は普段以上にざわつきます。
冷静な状態で今後のことを考え、進学先を選べるといいのですが、親としては合格できそうなところ優先、子どもにしても親が持ってきた情報にうなずくかどうかという場合が多く、期限も迫ってきている中では、親子とも双方納得の上で進学先を決めた、とはなりにくいのだと思います。

では結局、周りには何ができるのか。
まずは様々な高校の情報を伝えた上で早め早めに期限があることを伝えておくことです。
そして、子どもが少しでも興味を示したり、ここは受験するかもしれないと思った高校については願書を取り寄せ、すぐにでも提出することができる状態にしておきます(親ができる範囲で)。
もし子どもが興味を示したりすることがなければ、大変でしょうがすべての選択肢をとれるように願書を記入しておきましょう。
そうすれば子どもに、ギリギリまで悩んでいい、ギリギリでも滑り込みで出せるように準備しているからと伝えることができます。

また、仮に提出できずにストレートでの進学ができなくなったとしても、それで人生が終わったりしないし、将来への選択肢はたくさんあるということも、併せて伝えておくといいと思います。
ストレートで進学しなければ自分の人生はお終いだと考えている子どもは、期限の迫った状態では“とりあえず”で選択してしまい、余計に自分自身を否定してしまう場合もあります。
確かに期限はあるけれども、焦らずゆっくり進んでいくことができるということをちゃんと伝えていれば、子どもは進学についても落ち着いて悩むことができます。

そして何より、進学云々よりも子どもの状態がどうなのかということの方が当然大切なので、子どもがまだまだ苦しそう、休息が必要そうであれば、親として今の子どものために割り切った決断をすることも大切です。

登校前になると子どもに頭痛や腹痛等の症状がでる

子どもが抱える「学校に行けない」「学校に行きたくない」という気持ちは、いつだってスパッと割り切れるものではありません。
なぜなら「できることなら学校へ行きたい」という子どもの願いや、「学校に行かないという選択肢は考えられない」という固定観念等が生み出す“行きたい”“行かなければ”という思いと、学校へ行くことを考えるだけでも苦しくなってしまう現状の自分が生み出す“もう無理”“このまま行き続ければ壊れてしまう”という思いとが、両方ともに本音として子どもの中にあるからです。
この矛盾した“行きたい”、“行きたくない”を共に抱えながら過ごす日々は、周りが思う以上に子どもの心と体を疲弊させます。

朝、登校時間が近づくと子どもは悩みます。学校を何とか休むことはできないか。
しかし休むという決断も簡単ではなく、将来に向けて、普通に、今日に期待をして等様々な理由をもって布団から出て制服(もしくは登校する時の服)に着替えます。
食卓に座り、準備された朝食を目の前にしても食欲はわかず、時計の針が進むにつれて体がズーンと重くなっていくような気がしてきます。
家を出る時間になり、急がなければ間に合わなくなるにも関わらず、体が動かない。

こういう子どもは少なくありません。
周りからすれば、一応登校時間に間に合うように起きてきて、自主的に制服(もしくは登校する時の服)に着替えているのですから、とりあえず家から出しさえすれば普通に登校できそうに見えます。
そんな時子どもが、

「頭が痛い」

と言ってきました。
頭痛の他にも、腹痛や吐き気をうったえてくることも多いです。
でも熱はない。薬を飲ませて(持たせて)登校させる?午前中通院して問題なければ午後から登校させる?休ませる?
選択肢はいくつかありますが、その選択肢を子どもに提示しても、おそらく子どもは「休む」は選ばないでしょう。
そこでとりあえず午前中は通院をして様子を見て、行けそうであれば午後から登校させることにしました。
病院では特に異常はなし。特別な診断も薬もありませんでした。様子を見ていると段々とおさまってきたようだったので、午後から登校させました。

しかし翌日も、登校時間前になると子どもが「頭が痛い」と言ってきます。
しかも前日よりも痛そうに見えます。
通院するも異常はなし。
しかし翌日も・・・、ということは珍しいことではありません。
吐き気だけに留まらず、実際に吐いてしまったり、体が硬直したようになってしまうこともあります。

子どもが嘘をついているわけではありません。子どもは実際に痛みを感じています。
子どもにとっては“行きたい”“行かなければ”という学校。しかし学校へ行くと苦しい、きつい、つらい。
“行く”“行かない”の矛盾した本音を持った子どもの心は、どちらにも決断することができず、それでも心が“行く”“行かねば”という判断をした時、“このまま行き続ければ壊れてしまう”という危険信号を頭痛や腹痛や吐き気という身体症状によって、体が示しているのです。

これは「だから休ませなさい」という単純な話ではありません。
身体症状が出るということは、その時点では限界だということなのです。子ども自身の“行く”“行かねば”に、体がついていっていないということなのです。
そういった身体症状が出るということは、子どもは自分自身の苦しみを押し殺してでも学校という場所へ行こうとしているということです。だから身体症状が出た時に、「午前通院で午後から登校」等いくつかの選択肢を提示しても、子どもが自ら休む選択肢をとるとは考えにくいのです。

子どもが見せる姿は「学校へ行きたい」という姿でしょう。心の動きもそうでしょう。
でも、こっそりと限界を迎えている場合もあるのです。
この限界には、誰かが気づく必要があります。

“物で釣る”はあり?なし?

子どもが学校に行っていないと、何とかして登校してもらおうと親や周りは知恵を絞ります。
その知恵のひとつが“物で釣る”です。
「学校に行ったら○○を買う」「学校に行ったらお小遣いをあげる」「学校に行ったら○○に連れて行く」などなど。
子どもが興味を持ちそうな提案をしてみます。

確かに子どもが学校に行っていない状況で、「何の問題もない」と平然としている親の方は少ないでしょう。
どうにか現状を打破するために、何かないだろうか、どうすればいいだろうか、そんなことをたくさんたくさん考えて、実行していきます。
その行為は悪いものではありません。なんとかしたいという思いはとても自然です。

“物で釣る”は何も登校に限ったことではありません。
受診させるため、支援者に会わせるため、時には周りに不登校だとバレないようにするため、という場合もあるかもしれません。
そういった“物で釣る”という提案。
多くの子どもは反応しないと思いますが、時には反応する子どももいるでしょう。
そして望んだとおり登校するかもしれません。作戦成功です。

実際に親から“物で釣る”を提案された不登校経験者の方に話を聞いたことがあります。
その方は父親から「1回学校に行くごとに月のお小遣いに500円上乗せする」という提案をされたそうです。高校で不登校だった頃のことです。
その方はその提案に釣られ、2週間程登校したそうです。しかし続かずにまた不登校状態に戻りました。

“物で釣る”という提案の欠点は、“問題の根本が解決されたわけではない”という部分です。
そして更に、問題の根本をより見えにくくしてしまうことが多いのです。
子どもは別にお小遣いを賃上げしてほしいために学校に行っていない、というわけではありません。
目先のエサに釣られ、一瞬登校したとしても、何も解決していないままでは結局苦しさや辛さは変わりません。
そして、“物で釣る”提案をしてきた相手に不信感を抱きます。

義務教育期間に学校から「少しでも学校に来たら登校になるので、内申書のためにもちょっとでも登校した方がいいですよ」というようなことを言われた親の方もいるかもしれません。
これも“物で釣る”に当たりますが、この場合の釣られる対象は子ども自身ではなく親です。
“内申書”“進学”という言葉をエサに、親を使って子どもに登校を促すように示しているのです。
学校側がそこまで考えていなくても、言われた親からすれば、鵜呑みにして動いてしまうくらい心にくる言葉です。
そして子どもの心は置き去りになります。

“物で釣る”提案は、子どもの悩みや苦しみや不安をその“物”の価値と等しいと暗に伝えているようなものです。
「ゲーム買ってあげたら、その苦しみは無くなるでしょ?」という提案を、あなたは本当に心からできますか。

子どもが回復にむかう環境とは?

学校へ行けないということを様々な言動で表現する子どもは、その時点で心も体もボロボロで、疲れきっています。
“このまま学校へ行き続けると自分自身がおかしくなる”“命さえも危うい”“耐えられない”など、思いや理由は様々ですが、ギリギリのところで「助けて」という思いを発した点では同じです。
そういった子どもたちにとって大切なのは、まず休むこと、回復することです。
学校という、その子にとっては安心、安全ではなかった場所ですり減らした心と体を、少しずつもとに戻していく時間です。
子どもたちが回復しやすい環境とは、どういうものなのでしょうか。

まず理解していただきたいのが、子どもたちは休みたいから休んでいるのではなく、休まざるを得ないということです。疲労が限界まで達した心と体は、休むことしかできない状態なのです。
しかし、休むという行為も順風満帆にはいきません。
本当は行かなければいけない場所に行けずに、動けなくなっている自分自身を責める子ども。
学校に行っていない状態にもかかわらず学校で受けた傷が様々な形で蘇り、苦しみ続ける子ども。
期待や希望が打ち砕かれ、将来の夢や希望もなく真っ暗闇の中に立たされてしまった子ども。
親の期待に応えられずに、迷惑をかけて申し訳ないと休むことをあやまる子ども。
学校に行かずに家にいてもそんな状態であれば、順調に回復していきません。

ただでさえそんな状態なので、そういった子どもが休みやすい環境を作るというのは本当に大切なことです。
僕が考える環境作りのキーワードは“せかさないこと”“待たないこと”“今を一緒に過ごすこと”の3点です。

「とりあえず1週間休もうか」など期限を決めたり、「休んでもいいけど勉強だけはしとくように」など条件をつけることが“せかすこと”に当たります。
「期限までに回復しなければ」「勉強しないと休めない」という思いから子どもは自分のペースで休むことができません。

「休んで遅れても、あなたがその気になれば遅れを取り戻せるよ」など将来をイメージさせる声かけや、「学校に戻れるように回復を待つ」など回復後のあり方を押し付けるようなことが“待つこと”に当たります。
子どもは「どこかへ行く」「何かをする」などの目的のために回復するのではありません。目的はあくまでも結果に過ぎず、その目的ばかりをイメージさせてしまっては、休むことに集中できません。

上記2つをしないことが、“今を一緒に過ごす”ことに繋がります。
それは、一緒にお出かけすることかもしれないし、苦しかった話をゆっくり聞くことかもしれないし、声をかけずに見守ることかもしれないし、せかしてくる誰かを食い止めてあげることかもしれません。
もしできそうなら何か楽しいことを一緒にしよう、ということを、僕は訪問の時に大切にしています。その楽しいことは別に意味があることじゃなくていい。ただただその時間を、一緒に過ごす。それだけです。

周囲の人は、“学校に行かない=休めている(休息や回復をしている状態)”と考えがちです。
子ども自身、苦しかった学校へ行かなくていいとなれば、日々の中で自然と穏やかになっていったり、元気な姿を取りもどしていくことは珍しくありません。
その元気な姿を見れば、回復したと思ってしまいます。しかしその姿はあくまでも回復途中に過ぎません。
休んでいる間も子どもは自分を責めるし苦しむし、親に申し訳ないという思いを抱えています。
大切なのは、そういったものを取り除くのではなく、そういったものを抱えているのだと親や周囲が気づくことです。

学校に行っていない間、子どもは好きな時に起き、好きな時に寝て、好きな時に食べ、テレビを見たりゲームをしたり本を読んだりするでしょう。自由に過ごしているように見えるでしょう。ゆっくり過ごしているように見えるでしょう。

本当にそうですか?
本当に子どもは休めているでしょうか。回復できているでしょうか。
目に見える行動のみを見て休んでいる、回復していると思い込んではいませんか?

ひきこもり編

動き出す気配がない

ひきこもりという言葉は、現在では結構広い意味で使われることがあります。
家の中の部屋からまったく出ない、というイメージもまだあるとは思いますが、家の中では自由に動けたり、遠近問わず自分の意志で出かけることができる場合もあります。
現在ではひきこもりという言葉は、部屋や家から出ないという意味よりも、学校や職場などの社会的な集団に属していないというニュアンスで使われることが多くなりました。
まだまだフリーターやニートなどとの混同もありますが、ハッキリと定義することが難しくなったとも言えます。

長期、短期問わず、ひきこもっていると、動きがないように見えることが多いです。
はじめのうちは苦しみや悩みを抱えている姿が目に見えることも多く、「今はまだ動けるような状態ではないんだな」と理解もしやすいでしょう。
その内段々と家の中での様子もかわってきて、食事もとれるようになり、起きているときにはテレビをみたりゲームをしたりパソコンをしたりできるようになります。
話しかけると返事も返ってくるようになり、時には笑顔も見せてくれるようになったり。
家事の手伝いをしてくれることもあったり、時には出かけるようにもなってきました。

「そろそろかな」と思わされます。
もう長いトンネルの後半で、もう少ししたら光が差し込むのかもしれない。
進学か、もしかしたら『アルバイトでも始めてみようかな』なんて言ってくるかもしれない。
だけど急かさないように、その子自身の意志で言ってくるまで待たなければ・・・と思い始めてしばらく経ちます、という場合です。

せっかく元気なら、その状態の内に動き始めてもらいたいですよね。遅いよりは早い方がいいというのもわかります。
けれど、単に急かしたり、「そろそろアルバイトでも始めてみたら?」と声をかけるだけではあまり効果がないと思います。

わりと元気そうに、動けそうに見えて動かないのには、いくつか理由が考えられます。

まず、まだ動ける状態ではないということ。
「動けそうだな」というのは、あくまでも見た側の判断であり、本人の気持ちや状態がそうでない場合もあります。

次に、どう動けばいいのかわからないということも考えられます。
これからを考える時に、何を基準に考えてどう動いていけばいいのかわからないというのは珍しい事ではありません。
これからの時間を、進学や復学のための時間にするのか。アルバイトなどの働くことにチャレンジしてみるのか。正規雇用を目指すのか。
アルバイトにしても、職種や短期、長期など、考える点はいくつもあります。
無料のバイト誌で探すのか、ハローワークに行くのか・・・などなど。
または、まだ働くというよりも、まずは話せる仲間が欲しいとか、支えられながら中間就労のような形を望んでいる場合もあります。
そういった場合は、居場所やサポートステーションなどの機関があることも、知ってもらえるといいですね。
どうしたいかよくわからない状態の時は、なかなかひとりでは答えが出せません。
こちらの考えや価値観を押し付けないように注意して、相談しながら一歩ずつ進んでいくことが望まれます。

最後に、「動くこと」に対するズレがある場合。
動くとなると、どうしても進学や就職などの行動だと考えがちです。
もう少し幅を広げたとしても、居場所やサポートステーションなどの支援機関と繋がることを「動くこと」と捉えるでしょう。
しかしそこにもズレが存在するのかもしれません。
社会参加や社会的な集団に属するという感覚は、個人個人で違います。
いわゆる❝一般的❞は存在するのかもしれませんが、押し付けることができるものではありません。
子どもはすでに動いているのかもしれません。
見る側がそれを「動く」と捉えていないだけであって。

目に見える動きのみに気づき、社会的な価値観で褒めてあげることは誰にでもできます。
本当に大切なことは、なかなか捉えられない「動き」なのかもしれません。
気づいてあげてほしいと思います。

仕事などを紹介する時に注意すること

子どもが家にいて何もせずに過ごしていると、どうしてもいろいろ言いたくなってきます。
「○○してみたら~」とか。
でもそういう事って子どもからすれば言われたくないことだろうし、あんまり言わない方がいいと思っている方も多いと思います。
急かさずに待つとか、先回りしないとか、そういったアドバイスをもらったことがある方もいるかもしれません。
そういったアドバイスは適切ではありますが、しかし状況にもよります。

子ども自身も何もしていない状況の中で、これからのことを不安に思っていると思います。
多くの場合が、現状から脱却するためにはこうした方がいいだろう、という思いを子ども自身が抱えています。
もちろん最初からそんなに冷静に考えられるわけではないので、その子どもの状態、状況でも変わってきますが。
段々と目の前の激痛が和らいで、ほんの少し余裕ができ、周りを見たり目線をあげたりして、これからのこととかを考え始めたりした頃のことです。

これからどうしたらいいだろうと子どもが考えたときに、冷静に分析し、多彩な情報を集め、えいっと行動できるといいのですが、そんなにトントンはいきません。
まず、何をするにしても、ハードルがすごく高く感じます。
一般的な価値観として、「正規雇用>アルバイト」というイメージがあると思います。
だから何となく簡単そうなアルバイトをすすめたりしていませんか?

アルバイトをすすめるのはいいですが、「正規雇用よりなんか簡単そうだから~・・・」では、子ども側からすれば複雑な思いです。
「簡単なことしかできないと思われてる」「アルバイトですらできなかったら、もうダメなんだ」と受け取ってしまう可能性がありますし、そもそも同じ「お金をもらって働く」なので、簡単かどうかを雇用形態や他者の価値観で判断するのはおかしいです。

ではどういう風に紹介するといいでしょうか。
理想的なのは、どういった働き方ならできそうかを一緒に考えていくことです。
雇用形態、就業場所、就業時間、仕事内容、賃金、契約期間、職場の人数・・・などなど、判断材料は様々あります。
「どんな仕事がしたいの?」では、もやっとしていて想像がつきにくい場合がありますので、少し細かく話してみましょう。
例えば、家から近い方がいいのか遠い方がいいのか。公共交通機関で行くのはどうか。徒歩の方がいいのか、自転車やバイクや車で通いたいのか。時給いくらがいいのか。時給が難しければ、月にいくらほしいかなどでも考えることはできます。

大切なのは、すぐには決まらないと思ってかかることです。
考える材料はたくさんあるということを知ってもらうことが大事です。
あとは、消去法もあります。
「こういう方がいい」ではなく「こういうのはイヤだ」と、イヤなことを消していきながら考えます。

こういった話をしながら少しずつ、子どもがどういう部分に不安をもっているのかを知ることができるきっかけをつかむことができるかもしれません。
そんなことできるわけないという思いを封印し、とにかく全部出し合ってください。
一方的に価値観を押し付けるのではなく、聞きながら進めていくのです。

これはあくまでも僕の考えですが、アルバイトに対しての大きな不安のひとつは、契約期間だと思います。
もし辞めたくなったらと思うと、普通の長期契約のアルバイトは不安だらけです。
例えば、1週間限定とか、1日限定とかのアルバイトであれば、終わりが確実にみえているので、少し安心できるように思います。

アルバイトとひと口に言っても様々あるので、紹介する時には「バイトくらい~」なんて思わずに、一緒に悩む気持ちでかかりましょう。
そして、もしその紹介に対して良い反応を示さなければ、追い詰めないように引きましょう。
紹介はチャレンジのきっかけのひとつです。

そして。
チャレンジには多くの不安と、疲労と、そしてうまくいかない可能性がつきまといます。

「もしうまくいかずに戻ってきても、かわらずに受けいれてもらえる。居場所は無くならない。」

子どもがそう思えるような関係を築けていないうちは、安易な紹介はやめた方がいいでしょう。

話しかけるきっかけがない

子どもが家から出ることもほとんどなく、支援機関等にもつながっておらず、でも特に大きなケンカや争いごともなく、日々が平坦に流れていく。
元気そうに見えなくもないけれど、やっぱり暗かったり苦しそうな素振りを目にすることの方が多いかもしれません。
何とかしてあげたいけれど、「大丈夫?」なんて言えず「何かあったらいつでも言ってね」と、なんとか伝えることができるくらい。
支援機関等に繋がってほしいとは思っているけれど、今はそんなことは言い出せる雰囲気ではない。
なるべく明るい姿を見たくて、テレビの話題とかいろいろ振ってみるけれど、それも段々もたなくなってきました。
そうなると、息が詰まることも多くなってくるのではないでしょうか。

これからのこととか支援のこととか、そういう話ではない話題作りというのも、共に過ごす空間の中では重要だと思います。
僕がいいなと思うのは趣味の話です。
子どもの好きなことや趣味、その話題を一緒に話せるといいですよね。
映画や漫画や本、音楽や動物。食べ物なんかもいいかもしれません。

でもちょっと、最近はわからないことも増えたと思っている親の方。
パソコンやスマホの話題、ネットの話題にはなかなかついていけず、よって、そのことをきっかけに話を振るのは難しい。
子どもの好きなことや趣味に親の方も興味があればいいのですが、すべてそうとはいきませんよね。

そういう場合はこちら側からきっかけをつくってみてはどうでしょうか。
まずは親の方の好きなことや趣味に引っ張り込んでみる。
「一緒に○○してみない?」「一緒に○○に行かない?」と誘ってみる。
この誘いのいいところは、親の好きなことや趣味なので、子どもが誘いにのろうがのるまいが、親だけでも結局やってしまえるところです。
子どものためにと思って誘いかけたりすると、子どもの方は断りにくくなります。
仮に子どもが断ったとしても、「自分がこんな状態だから、わざわざ誘ってくれたんだ」と申し訳なさを覚えたり、「そうやってどっかに連れて行ったらいいと誰かに言われてそれを実行しているだけなんじゃないか」と不信感を持たれたりします。
親自身の好きなことや趣味を誘いかけるということは、子どもにとっては断りやすいので、変に悩ませたりすることは少ないと思います。
「興味ないしお母さん(お父さん)だけで行ってくれば」と言われたら、「わかった、行ってくるね」と楽しんでしまえばいいのです。
子どもに誘いかける時は、NOの選択をとりやすいように誘うことが大切です。
そのうえで誘いにのってきたら一緒に楽しめますね。

親の好きなことや趣味だけではないきっかけづくりも様々あると思います。
僕がよく言うのは、食べ物できっかけをつくることです。
晩御飯にちょっと変わった料理を出してみる。「これ○○っていう○○の国の料理、挑戦してみた」という感じです。
「○○っていう料理作ろうと思うんだけど、作り方ネットで検索してみてくれない?」と子どもに頼んでみるのもいいかもしれません。

手作りじゃなくてもいいんです。
仕事などで家を空けることが多く、なかなか子どもとの話すきっかけがない場合(これは父親にによくあります)。
子どもが家にいる場合、カップラーメンやお菓子など、夜食や間食用に置いてある場合も少なくありません。
そういったものを外で買う時に「新商品」や「季節限定品」などを買ってきて置いておく。
その商品がなくなっていたら、「こないだ買ってた新商品美味しかった?」と話しかけるきっかけになります。
なくなってなかったら、「こないだ買ってた新商品、美味しくなさそうだった?」と話しかけるきっかけになります。
いつものカップラーメンではなく、違う味だからこそできるのです。
子ども側からしても、外に出る機会が少ないと、そういった新商品などに触れる機会も少ないため、嬉しい人もいると思います。
それでも「やっぱりいつものがいい」と言われるかもしれません。
それはそれで、いつものが好きなんだとわかって嬉しいし、でもまたいつものと一緒に別の新商品も置いてみていいと思います。
お菓子やジュースなんかでも、変わった味の商品が話題になったりしているので、そういったものを話のきっかけにしてみてはいかがでしょうか。

関わりを持つとは、何も将来のこととか、ゴールに向けてのことだけではありません。
そういったことにまるで関係がなかった関わりが、子どもの心に残っていたりするのです。

過去のことで責めてくる

子どもから様々なことで責められる親は多いと思います。
「時間を返せ(戻せ)」と、無理難題を言われることもあるでしょう。
「昔○○された」と、十何年も前のことを持ち出して言われたり、ちょっとしたことをまるで大きなことのように誇張して言ってきたり、ということもあるかもしれません。
本当は別の人がしたことなのに、さも親にされたかのように言う場合もあるかもしれません。
その姿をどのように理解することができるのでしょうか。

昔のことを持ち出すということは、子ども自身がそこに何らかの引っ掛かりを感じていると考えられます。
そしてそのほとんどが、現在では完全解決が難しい(不可能な)ことが多いです。
ここで言う完全解決が難しいとは、子どもが言うことをそのまま実行したり、受け入れたりすることが難しいということです。
例えば、「高校生の頃に戻せ」と言われても、実行することは不可能です。
「あの時○○されたからこんな風になってしまった」と言われても、過去に戻ってその事象を消してくるのは不可能です。
「死んで償え」と言われても、受け入れることはできないでしょう。

では何故、子どもはそのように完全解決が難しいことにいつまでもとらわれ、責めてくるのでしょうか。
それは、“今の自分を自分自身で受け入れていくため”です。
昔のことを持ち出したりして責めてくるというその言動こそが、今の自分を受け入れていくために必要な言動、時間なのです。

子ども自身が苦しみや不安を抱えて毎日を過ごしている場合、なぜ自分がそのような現状にあるのかを、子ども自身で考えます。
自分がこんな苦しみを抱えさせられた原因、思い通りに生きていけなくなったきっかけ、将来を奪っていった誰か。
こんな苦しい現状に陥ったのは自分自身が原因だと言われ、すべての責任が自分にあると思っていては、日々命を繋げることなどできないのです。
そうやって、こじつけのような理論も含めて、自分以外の誰かや何かに原因を求めます。
そしてそれらの理論は、決して間違いではありません。
こじつけだと感じても、大げさだと思っても、子どもにとっては事実であり、それこそが真実です。そこを否定することは誰にもできません。

では結局、過去のことで責めてくる子どもに対して、親はどう対応すればいいのか。
過去のことで責めてくる姿は、前向きな姿です。子どもが今の自分を精一杯受け入れようとしている姿です。未来へ目を向けている姿です。
まずはそのように捉えて下さい。
そして声を聴いてください。
単純な言葉の表面に惑わされずに。解決がゴールではない。
子どもの中で、今の自分を受け入れていくために、折り合いをつけることが大切なのです。
責めてくる姿はその過程。

その姿を真剣に見ることなくして、子どもとの素敵な未来を妄想するのは、都合のいい話だと僕は思います。

兄弟姉妹との関わり(ひきこもり編)

以前、不登校編として兄弟姉妹との関わりについて書きました。
今回はひきこもり編です。

ひきこもっている子どもがいる時の心配事のひとつが、その子の将来の生活です。
ひきこもりが長期化、高齢化していく中で、親も当然高齢化していきます。
世帯としての収入も以前よりも減っていくことが多い中で、子ども自身の収入はなく、今後の見込みも現状からはなかなか見えてこないというのは、珍しいことではありません。
そんな中で、ひきこもっている子どもに兄弟姉妹がいる場合、親はどのように関わっていくことができるのでしょうか。

兄弟姉妹に、ひきこもり等に関する理解があれば、気持ち的には楽な部分もあるかもしれません。
しかし、理解があろうとなかろうと、「親が亡くなった後、ひきこもっている○○の生活の面倒は兄弟姉妹である自分がみなければいけないのか」と不安に思っている兄弟姉妹の方も多くいると思います。
そういった不安から、また、親に負担をかけている姿を見かねて、ひきこもっている本人に厳しく当たったり、親に対して「いい加減働かせて」と伝えてくる兄弟姉妹もいるでしょう。
兄弟姉妹が身近に住んでいる場合は、普段から接する機会もあると思うので、スムーズに伝わる話もあると思いますが、遠方にいる場合は、まずは現状を伝えることも大変な場合が多いと思います。
そんな中で親としては、できるだけ兄弟姉妹には迷惑をかけたくないと思われている方が多いと思います。

ひきこもっている本人にしても、親に頼るのと兄弟姉妹に頼るのとでは、気持ちの部分で大きな違いがあるでしょう。
だからこそなるべく、親が元気なうちにできることをやっておくことは大切です。

僕がやっておいた方がいいと思うのは、財産や資産などの振り分け、相続に関することです。
今子どもがひきこもっている家が、親が亡くなった後は誰の名義になるのか。現状ではひきこもっている本人には収入がないため、おそらくは兄弟姉妹の誰かということになるのかもしれません。
しかし、その兄弟姉妹がその家に住むのかどうかはそれぞれで違います。既にその兄弟姉妹に住む家がある場合、話はややこしくなるかもしれません。
また、親亡き後にひきこもっている子どもにかかる生活費等のお金。
遺せる財産等があれば、ひきこもっている子どもがなるべく生活していけるように配分するということも、当然話し合いが必要になると思います。
親としてはどちらも同じ子どもでしょうから、一方に多く、一方には少なくということは心苦しいと思います。必ずそうした方がいいというわけではなく、どのようにすることが家族として、親子として、兄弟姉妹として納得のいくものになるのか、そこを話し合っていくことが大切だと思います。
状況によっては福祉サービスや社会保障を利用することもあると思うので、家庭の中ばかりで考えず、専門的な窓口に問い合わせることも必要かもしれません。

当然ひきこもっている子どもが動きだす、働きだすということもありますので、そこには期待がかかります。
しかし念には念を、早め早めに動くことも大切です。
また、兄弟姉妹との関係以前に、ひきこもっている本人に対して、親亡き後を意識してもらうことも必要です。
それは口を酸っぱくして言うということではなく、親が亡くなった時にはこういうこと(手続きなど)が必要になってくるから知っておいてほしい、ということを、様々な形で伝えていくということです。

現状をあきらめず、でも将来のためにできることもやっておく。
大変なことが多いと思いますが、考えて頂けたらと思います。
また、そういったことも含めて、ひきこもり支援の窓口に相談しに行くことも大切です。

お小遣いはあげるべき?

不登校状態からそのままひきこもりの状態に移行したり、一旦就職したけどひきこもって時間が経つうちに、子どもが自由に使えるお金が減ってきたり無くなったりすることがあります。
そうなった時に、お小遣い(子どもが自分の意志で自由に使えるお金)をあげたほうがいいのでしょうか。あげないほうがいいのでしょうか。
今回はそのことを考えていきたいと思います。

ひきこもっている中で自由に使えるお金が無くなってくると、それでも欲しいものがあったり行きたいところがあれば、そのために働こうとするだろう。
お小遣いをあげてしまえば、働かなくても欲しいものが手に入る環境にあるため、働こうとか外に出ようという気がなくなってしまうのではないか。
多くの親の方がこのように考えていると思います。確かに一理あります。
欲しいものや行きたい場所があって、そのためにお金が必要だから働く、とそのように考えてくれれば、ひきこもりから脱することもできるかもしれません。

そういった欲しいものや行きたい場所というのは“欲”だと考えることができます。
この“欲”。過度な欲はともかくとして、ひきこもっている時には無いよりはあった方がいいと僕は考えています。
というのも、ひきこもっているうちに段々と“欲”がなくなってくるようなパターンがあるからです。
「欲しいものや行きたいところがなくなる」「不要なものを処分していって部屋の中に物がなくなる」「ボロボロの服や下着を、新しいものを買わずに着続ける」など。
このように状態では、こちらからのアプローチは難しくなります。

ではなぜ“欲”がなくなっていくのか。いくつか理由が考えられます。
まずは、「申し訳ない」「そこまでの価値はない」という気持ち。
ひきこもっていて、何の生産的な活動もしていない自分が物を買ったり好きなところに行ったりするなんておこがましい、申し訳ない、自分にそんな価値はないという、自己否定からくる“欲”の減少です。
季節の中で寒かったり暑かったりする日でも、暖房器具や冷房器具などを電気代を気にして使わなかったり、衣服も最低限の数しか持っていなかったり。
健康に影響が出たり、衣服に関しても、いざ外に出ようという時に困ることもあります。

欲しいものや行きたいところがあっても、お金がなく我慢し続けるうちに段々と“欲”がなくなっていく、ということもあります。
“欲”はずっとあったんだけれども、お金がなくなって、親に求めることもできず、かと言って働くこともできないまま時が経ち、結局押し殺したまま“欲”自体が減少していく、ということです。
ひきこもっている時に、お金がないけど欲しい物はあるからと親に無心するのは、子どもにとってはとても難しいことです。
当然その時に「働く」という選択肢も思い浮かびますが、様々な葛藤を抱える中でその選択をとることもできず、結果的に押し殺すということはよくあります。
押し殺すことに慣れていけば、益々日々が薄く淡いものになっていきます。

では、お小遣いはあげたほうがいいのでしょうか。欲しいと求められた時には、お金をあげた方がいいのでしょうか。
最終的には各家庭の経済状況などにもよるでしょうが、僕は一定額を決めて、お小遣いをあげた方がいいと考えています。
お金がないと多くのことが制限されてしまいます。
行きたいところに行けなければ、そこでの出会いもなくなります。物を持っていないということが、人との会話を狭めるかもしれません。
もちろん、際限なく与えることはできません。
親子の間で折り合いのつく額を決め、その額の中から子ども自身で考えて使っていくというその過程も大切です。

お金がないからと、すぐに親からお小遣いのことを言い出す必要があるというわけではありません。
お金がないけど欲しいものがある、行きたいところがあるとなった時に、ではどのような方法で解消できるだろうかと一緒に考えてみてください。
一定額のお小遣いというのは、ひとつの選択肢です。

ひきこもっていたとしても、欲しいものや行きたいところがあるのは自然なことです。当たり前のことです。
その当たり前のことが、どんな状態でもできているということが大切です。
そこにこそ支援の入る隙間があると考えています。

いろいろ編

それって“ためされてる”のかもしれません

不登校やひきこもりの子どもや青年と関わるとき、「なんでそんな事するんだろう」とか「なんでそんな事言うんだろう」と思わされることは多くあります。
僕としては、そういう時にはその「なんで」をぜひ想像して、考えてほしいなと思っています。

しかし、想像はあくまでも想像に過ぎないので、当たっているかどうかはわかりません。
ただ、その想像するということが、相手を追い詰めすぎないひとつの要因になるのは確かです。

例えば、不登校中の子どもが夜に「明日は学校に行ってみようかな」と言ったとします。
その言葉をストレートにそのまま捉えることは、誰にでもできますが、安易だと僕は考えます。
「なんでそんな事を言うのだろう」と想像してみると、正解かどうかはわかりませんが、いくつか考えることができます。
ひとつは、子どもが子ども自身に言い聞かせている可能性。子どもが自分で自分に「明日こそは学校に行かないといけない!」と言い聞かせているかもしれない。
次に、親に希望を持たせたい可能性。普段から子ども自身が、学校に行けていないことで親を失望させていると考えているのなら、その失望を少しでも軽減させたくて出た言葉かもしれない。
あとは、今回のタイトルにもある、ためされている可能性。「学校に行ってみようかな」と言って期待を持たせておいて、でも結局行けなかった場合親がどんな反応をするのかという、反応をうかがっているような意味があるのかもしれない。

というような感じです。もちろん他にも様々想像できますし、もっと細かく現状などを知ることで内容はかわってきます。
みっつめの、ためしてるんじゃないかな、反応をうかがってるんじゃないかな、と思わされる言動は、これまでにも多く出会ってきました。
その場合、そのためしの言動が意識的か無意識的かでも違いはあります。

ためされたり反応をうかがってたりするわけだから、それに対しての正解の反応や対応があるのでは、と考えてしまいがちですが、そう簡単ではありません。
というのも、おそらく多くの場合が「ただ単にためしている」という具合で、望み通りの反応が返ってきたから満足とはいかないことが多いからです。
ではなぜ、ためすような言動をするのでしょうか。

それは、「こんな自分でも受け止めてもらえるのかだろうか」「こんな自分でも認めてもらえるのだろうか」「こんな自分でも愛してくれるのだろうか」といった思いからだと考えられます。
不登校やひきこもりの状態にあるときは、自分のこと(時には自分のすべて)を否定してしまいます。
「○○ができないダメな自分」「普通ではないおかしな自分」「期待に応えられない情けない自分」というような思いを抱えてしまいます。
その過程で、「○○できる自分にならなければ」「普通でいなければ」「期待に応えなければ」と考えてしまうと、余計に苦しくなってしまう場合が多いです。
そんな時、こんなダメな自分でもいいのかな、と不安になります。
「○○できないダメな自分」が遊んでもいいのかな。「普通ではないおかしな自分」がお小遣いもらってもいいのかな。「期待に応えられない情けない自分」が甘えてもいいのかな。
だけど、本当に受け止めてもらえるのかは不安です。受け止めてほしい気持ちはあるけれど、自分自身を強く否定するあまり、受け止めてもらえると考えることが難しいのです。

だからためしてみます。
「僕はこんなダメな子どもだよ」「私はあなたの期待に応えることができない人間だよ」

「それでもいいの?」

というわけです。
あえてダメな自分、良くない自分を見せてくる場合(暴言、暴力、期待させて落とす、嫌われるような言動をとる)場合は、ためされている可能性があります。
そこには、「信用できる相手であって欲しい」という切な希望が込められています。

“待つ”とはどういうことなのか

不登校やひきこもりの子どもと関わる時、大切なのは❝待つこと❞だと耳にした方、多くいらっしゃると思います。
「信じて、まかせて、待つ」というように、合わせて聞いた方もいるのではないでしょうか。
待つというのは本当に重要で、不登校やひきこもりの子どもと関わる時、その根幹となり得るものだと考えています。
しかし、この❝待つ❞。非常に難しいのです。
おそらく多くの方々が様々な形でこの❝待つ❞を解釈をしています。
ここでは、僕なりの解釈をお伝えしたいと思います。

待つことがなぜ難しいのか。
それは、「❝待つ❞とは手段ではなく結果」であるからです。
意識的に待っていては、本来の待つにはならないと僕は考えています。

例えば、不登校の子どもに対して、意識して待つとどうなるのか。
その時待っている親(もしくは身近なおとな)は、何を待っているのでしょう。
学校に行けるようになるのを待っているのか。友達をつくることを待っているのか。部屋から出てくるのを待っているのか。
意識して待つと、相手に変化を求める待ち方になります。
つまり子どもにとっては、「自分が(相手にとって)良い変化を起こすように待たれている」と感じられます。
意識して待つことは言い換えれば、「良い変化をしてほしい」というメッセージであり、それは結局現状を否定していると子どもに捉えられてしまうことが多いのです。

では❝待つ❞とは何なのか。
親の会などで、親の方がよくこう言うのを耳にします。
「いろいろ試してきましたがうまくいかず、結局待つことしかできませんでした」と。

子どものためにと、親はいろいろ試します。
医療機関を頼ったり、専門家の話を聞いてみたり、時には背中を押してみたり、いろんな手段を紹介したり。
何でもかんでもしてみたけれど、のれんに腕押し、ぬかに釘。いろんな試しも親がただただ疲れるばかり。
できることはやってみた。そしてなんとか関係は崩れていない。
この先どうなるのかはわからないけれど、とりあえず一旦いろいろするのはもうやめよう。

その姿が、結果的に❝待つ❞という風に捉えられた。
この無意識的な待つこそが、子どもに変化を求めない待ち方だと僕は考えています。
そしてこの待ち方は、意識していてはできないのです。

❝待つ❞は❝試す❞の後にあります。
何もしないうちから「待てば子どもは良くなっていく、だから待つ」というように、手段として待っていても、ただ焦れるばかりでしょう。
いろいろな話を聞いたり、学んでいくと、子どもとの関係や子どもの心を気にするあまり、何も試さないに陥りがちです。
その時に「今は待つことが重要なんだ」と、言い訳のように考えていませんか。

その待ち方では、子どもに「親を待たせてしまっている、早く変化をしなければ」と感じさせてしまいます。

“求められる”ということ

子どもは様々な形で親に求めてきます。
厳しい言葉で、甘えた態度で、他人を通して、時には暴力で。
一般的な年齢や、これまでの性格などからは考えられないような言動で求めてくることも少なくありません。
そのどれもが、子どもにとっては真剣で、切実です。
それは親からすれば、“求められる”ということです。
親は、子どもから求められた時にはどうすればいいのでしょうか。

一番簡単なのは、応えてあげることです。求めに応じるということです。
例えば、一般的に考えて、もう母親に甘える年齢ではないだろうという子どもが甘えてきたとします。
受け入れられそうであれば、基本的には受け入れた方がいいと思います。
触れる、添い寝、などを求めてくることは珍しくありません。
しかし、できないこともあるでしょう。
そういう場合は、代わりになりそうな提案をしてみてはどうでしょうか。
抱きしめるのが無理であれば、手を握ることはできる、とか。

甘えてくる場合は対処できるかもしれませんが、暴言や暴力の場合は、ただただ受けていていい、というわけではありません。
物理的に距離を置くという選択肢は当然あります。
また「やめてほしい」と伝えることも、できるならばした方がいいでしょう。

ここまでみれば、結局その時々の対応を考えなさいという話に思えるかもしれませんが、実はそうではありません。
大切なことは、子どものその言動が、親に対して“求めている言動”であると気づけるかどうか、ということです。
子どもが求めてくるということは、親との関係を良好なものにしたいと子どもが思っているということです。
過去にできた傷、された仕打ち、自分らしさを奪われたこれまで、目指したかった夢、様々な思いが合わさって、憎しみと愛情がぶつかって、親に素直に求めることができない、そんな子どもの精一杯の“求め”。
親からすれば忘れてしまったことかもしれませんし、いわれのないことかもしれません。
子どもの中で誇大に膨らみ、事実を何十倍にも膨らませて、ぶつけられてしまっているかもしれません。

でももしその時に、「関係ない。昔は昔、今は今。お前ももうおとなだろう」「あの時はすまなかった。しかし~…」と突き放してしまえば、子どもとの関係が良好にはなっていきません。
子どもにとっては、本当はもっと前に求めたかったけど、様々なことが理由でそれができず封印していた、しかしどうにも抑えきれなくなったというような思いです。

理想はもちろん応じること。
しかしそれができない場合も多くあります。
そんな時でも何より大切なのは、子どもがあなたに求めているということ。あなたは求められているということ。
そのことにまず気づけなければ、何も始まりません。

求めてくるということは、関係を良好にしたいと思っているということです。助けてほしいと思っているということです。
そのことに気がつくことができれば、応じるだけがすべてではないとわかるはずです。

盆正月等、親戚で集まる時のいろいろ

ざっくりとしたテーマですが、親も子も共に気にしている人も多いと思います。
そもそも親戚があんまりいないとか、そうやって集まったりする習慣がないという方にはピンとこないことかもしれません。

不登校中やひきこもっている時に、親戚との関わりを嫌う、避けたがる子どもは少なくありません。
普段はあまり会うことがない親戚からのありがた~いお説教、同年代の親戚との無意識の比較、自分なんかがこんな場所にいていいのかという居心地の悪さ。
挙げればキリがないでしょう。
また、親としても、子どもがどんな様子なのかが逐一気になったり、家に帰った後に荒れたりしないだろうかと考えたり、そもそも子どもの現状をどう説明するのか、どこまで、誰までだったら言えるのかなど、悩みは尽きないような気がします。
では実際、どのように対応することができるのでしょうか。

まず何にしても、子ども自身との話が大切です。
「〇月〇日に○○(場所)で親戚の集まりがあるんだけど行く?」と確認してみましょう。
この時、即答でYES、NOの返事がくるとは限りませんので、返答に時間をかけられるように余裕をもって何週間か前に伝えた方がいいと思います。
その際、「誰がくるのか」「何をするのか」「何時から何時までなのか」とかいろいろ聞いてくるかもしれませんので、細かく答えてあげて下さい。
子ども自身が興味を持ち、行きたいとなった場合、もし話せるようであれば、現状をどのように伝えようかと子どもに相談してみてください。
「すべてを隠して」「事前に言えそうな人(多少の理解がありそうな人)には伝えておく」「嘘をつく(不登校中なのに学校には行っているように振舞う)」などなど、様々な対策を共に練ることが大切です。先に挙げた例が最善策ではないので誤解しないようにして下さい。
大切なのは、親自身がちゃんと子どもの味方であり、相手が親戚であろうとそこは揺らがないという関係性を築けているかどうかです。
普段なかなか会わない親戚が、過度な心配故、また無理解故に、子どもにとっては苦しくなるような言動をとってくる可能性は否定できません。

行くとなった場合は対策を練ってということになりますが、では行かないという場合はどうでしょう。
親戚の集まりっていろいろと面倒くさくて、全員揃っていないと「なんで来てないんだ」みたいな話になったりもします。
どこかへ出て集まるという場合はいいでしょうが、そもそも自宅が集まりの会場になっている場合は、行きたくないと思っても相手が来てしまうので難しいですよね。

どこかへ出て集まるという場合には、「今日は体調が悪いみたい」など、適当に流すのもありだと思います。現状を言えそうであれば、伝えることもいいでしょう。
集まりに来ていない理由にしても、本当は子どもと話せるといいと思います。
「『なんで来てないのか?』って聞かれると思うんだけど、なんて答えたらいいかな?」と聞いてみて、反応がない場合は、基本的には現状をそのまま伝えない方がいいと思います。
誰にでも現状をありのまま話せばいいというものではありません。
特に普段はめったに会わない相手であれば、特別な理由がない限り話す必要があるとは思えません。
ただし、理解がありそうであったり、真剣に聞いてくれる人であった場合は、別かもしれません。

自宅が会場になっている場合、子どもにそのことを伝えて「嫌だ」と言われた場合。
そもそも子どもの気持ちをそこまで波立たせる集まりを、わざわざその子どもの目と鼻の先で開催する必要があるのかを、もう一度考えてみてください。
それでも開催となれば、もう子どもは籠城するしかないでしょう。
“敢えて目と鼻の先で集まれば、雰囲気を感じて出てくるかもしれない”という浅はかな考えはやめましょう。
部屋の中で子どもは、トイレに行くこともできず、ただただ家が早く自分の安心できる場所に戻ってくれるよう、静かに必死に願っています。

親戚の集まりがつらいのは、子どもだけではありません。
子どもがその場にいてもいなくても、親として責められたという経験のある方も多くいらっしゃると思います。
日々子どもといい関係を築いていくために大切なことのひとつが、親自身が余裕を持つ、安定するということです(かなり難しいですが)。
親戚の集まりがその余裕や安定を害するものであるならば、親子ともども行かない、参加しないという選択肢はありです。
関係はその後も続きます。
安心して、楽しみにして行けるようになった時に、参加すればいいのではないでしょうか。

そもそも相談に行った方がいいのか?

わが子が不登校やひきこもりの状態にあると、親をはじめ、周りのおとなは心配になります。
どう対応すればいいのかわからない、どうしようもできない、という中で、相談に行ってみようとなる場合も多く、そこから窓口探しが始まります。
すんなり見つかって、相談できる相手にも出会えればいいのですが、なかなかそうはいかない場合もあります。
ただどちらにしても、動き始めてみないとどうにもなりません。
そこで今回は、どのような時にどのような所に相談に行くのがベターか、ということを考えていきたいと思います。

★「こうしてみたらどうか」等のアドバイスが欲しい場合
こういう場合は、不登校“支援”とか、ひきこもり“支援”とうたっている団体がいいと思います。もぐりもここに当てはまります。
当然、相談へ行こうと思うくらいなのでアドバイスを求めている場合が多いとは思いますが、こういうところ(もぐりも含めて)へ相談に行く場合は注意も必要です。
相談しに行った団体からもらったアドバイスが必ずしも正しい(子どもにとってプラスの効果をもたらす)とは限りません。そのあたりの見極めは大切になってきます。
また、親自身の感情を話す場ではないことが多いので、わりと子どもの過去の事とか、どういう経緯があったかなどの事象についての話になりますので、親自身の気持ちが軽くなったり楽になったりするかは微妙です。
というのも、アドバイスというものは、受けて即実行して即効果が出るというわけではないので、相談している最中はなんだかこれからが明るく思えたとしても、実際に家に帰って実行してみたらすぐに心が折れてしまう、ということはよくあります。
“支援”をうたっている団体に相談に行っても、その多くが支援者と被支援者(相談者)という関係になるので、人にもよりますが気軽さは欠けます。
気軽に話せるかどうかはともかくとしても、良くも悪くもドライな関係になるので、そのあたりも人によっては物足りなく感じるかもしれません。

★同じように悩んでいる人たちと話したい場合
こういう場合は、親の会や家族会などの“自助グループ”という団体や集まりがいいと思います。
わが子の不登校やひきこもりのことをそもそも話せる相手がいなかったり、そういった意味でも親自身のこれまでの付き合い(ママ友パパ友とかPTAとかご近所付き合い等)から縁遠くなっていってしまったり、なんとなく分かち合いたい、共感しあいたいという方には当てはまると思います。
上記の支援者と被支援者(相談者)という関係ではないので、プライベートでお茶したりなど、会や集まりを超えた人間関係に発展する場合も多いです(人にもよりますが)。
そういった集まりでは主に「自分のことを話す」という部分に焦点が当てられていますので、たまっている様々な感情を吐き出すこともできます。
また、経験者が多いので、行政等では紹介できない情報を仕入れることができる可能性もあります(「○○病院の○○先生がおすすめ等)。
しかしその分、アドバイス等はほぼなく、子どものこれからについての建設的な話にはなりにくいです。「で、結局どうしたらいいんだ」という疑問が残る場合もあるでしょう。
また、会によっては参加費が無料ではなかったり、人数や場所などの規模が時によって違ったりすることもあります(これは上記にも下記にもいえますね)。
会自体が長い期間活動をしている団体であれば、すでに人の輪が出来上がってしまっていて、入りづらいという場合もあるかもしれません。

★実際に子どもに関わってほしい場合
こういう場合は、フリースクールや居場所、就労支援等をおこなっている団体がいいと思います。
相談窓口というのは、あくまでも“相談”をするところであり、その後の動きになると動いてくれないところもあります(システム上動けないという場合が多い)。
例えば行政や行政委託の無料相談窓口で、「子どもが家から出て相談に来られればいいけれど、それができないから家まできて会ってください」と訴えても、その窓口の方がすぐに会いに行ってくれるかどうかは微妙ですし、期待できません。
それは、その窓口はあくまでも相談のために設けられているものなので、訪問することができないということがほとんどだからです(職員の怠慢などではありません)。
つまり、相談窓口という体をなしておらず、基本的には子どもや青年の居場所を提供していたり、就労までをサポートすることを業務としている団体に相談に行くことで、相談窓口では動けない部分を補ってもらおうということです。
ただしそういった団体が、まず一歩目の相談場所として長けているかどうかはわかりません。
ある程度外に出ることができたり、就労や復学へ心身共に意欲のある子どもや青年にとっては合うかもしれませんが、そうでない場合は効果がないかもしれません。
また、そういう団体や場所は、1対1の関係にはなりにくく、最初から小集団の中での関わりになることが多いです。
相談窓口などでは、子どもや青年の相談に個別でのってくれる環境もあるので、そこも違いかなと思います。

いくつか書いてきましたが、どれも一長一短です。
すべての相談先を巡ることができればいいですが、物理的な距離などで通えなかったりして、そもそもの選択肢が少ない場合もあります。
ともあれ、様々な相談先にはそこそこの強み、弱みがあります。
もし余裕があればそういったことも事前に調べたうえで行くといいかもしれません。
ただどの団体も真剣に取り組んでいるはずです。
まずはどこかへ相談してみる、ということは、個人的にはとても大切だと思っていますので、勇気を出して問い合わせてみてください。

子どもの“矛盾”をどうみるか

矛盾という言葉を検索してみると、『前に言ったことと後に言ったこととが一致しないこと。一般に、理屈として二つの事柄のつじつまが合わないこと。』と出てきます。
ここで言う矛盾とは、例えば、「そろそろ学校へ行こうと思う」と言って全然行かなかったり、「進学したい」と言って全然勉強しなかったり、「働く気はある」と言いながら全然動かないというように、言葉と行動が伴っていないということです。
口で言っていることと実際の行動とが一致していない、むしろ逆行しているようにみえるということも少なくないと思います。

「進学したい」や「働く気はある」と口に出すのには、いくつか理由が考えられます。
自分に対して言い聞かせていたり、親を安心させようと思って言っていたり、その場しのぎで理由付けをしただけだったり。
「親を安心させる」とか「その場しのぎ」で言っているのであれば、相手に合わせて相手が望むであろうことを口に出しているということなので、行動が伴わなくて当然です。子ども自身が「できる」「やるぞ」と思っていない状態で言葉にしたのであれば、行動が伴う場合の方が少ないでしょう。

子ども自身が、口に出したその時は「できる」「やるぞ」と思っている場合もあります。口に出したその瞬間、本気で思っているということです。
しかしそれは「復学」「進学」「働く」ということに縛られている、とみることもできます。
子ども自身が「やるぞ」と思って口に出した言葉は、実は「そうあらねばならない」「そうしなければならない」と、自分で自分を追い詰めている言葉である場合です。

「学校へ行きたい」から「学校へ行こうと思う」と言ったのではなく、「学校へは行かなければならない」から「学校へ行く自分であらねばならない」という思考のもとで口に出たととることもできます。
だとすればそこにあるのは「やるぞ」と思っている子どもの姿ではなく、「そうあらねばならない」と自分を追い詰めている子どもの姿であり、その状態で口に出した言葉には実際に行動する原動力となるものがありません。
しかし「そうあらねばならない」が「そうでありたい」という希望を含んでいることも、また事実です。
そういう意味では「やるぞ」という姿が、嘘の姿ではないのです。

以前あるひきこもり経験者の方がこのように言っていました。
「親や周囲には“期待してほしいけど期待してほしくない”んです」と。
言葉としては矛盾があります。でも、こういった思いを持っている子どもは多いと考えています。
復学や就労を期待されると重く感じてしまうが、まったく期待されないとそれも悲しい。
矛盾しているようですが、その矛盾した感情こそが本心だったりします。

多くの矛盾した言動には、矛盾を矛盾のまま受け入れることができるかが問われています。
矛盾の解消に囚われているうちは、親自身の気持ちが軽くなることはないでしょう。

子どもの“本当にやりたいこと”を見極めるためには?

子どもが不登校中だったり、ひきこもっていたりすると、「この子は本当にいつか動き出すのだろうか」と不安になる方も多いと思います。
そういう不安を支援者(もぐりも含む)に伝えると、「本人に“やりたいこと”が見つかれば、自然と動き出します」というような返答をされたりします(僕も結構言う)。
そのアドバイスをもとに子どもの様子を見ていると、ある時子どもが「○○してみようと思ってる」と言い出しました。
○○は進学かもしれないしアルバイトや就職かもしれないし、支援機関に相談に行ってみることかもしれないし、将来の夢や目標かもしれませんが、ともかく「子どもに“やりたいこと”が見つかった」と思って周りはそのための準備をします。
準備が整って後は子どもが行動するだけ、というところで子どもが動かない。「自然と動き出すはずじゃなかったのか?」と思ってしまいます。

これには僕自身、子どもの側として経験があります。
17~8歳の頃(不登校中)、「大学へ行こうと思う」と言っている時期がありました。
大学へ行くためにはそれなりの学力が必要なのですが、僕はその当時まったく勉強していなかったので、親の「予備校に行ってみたら?」という提案にのることにしました。
親が予備校を見つけてくれて、一緒に見学にも行き、すぐにそこに通うことに決めました。そして2~3日しか行きませんでした。
入学金はムダ金に。親の期待も裏切り、「結局僕は何もできないんだ」という無力感が増した出来事でした。

僕の例の流れの中に、何か大きな間違いがあるのかと言えば、そういうことはありません。
なんとか現状から一歩踏み出したいという思いから「大学進学」という目標を口にした当時の僕。その思いを汲んで、目標達成のために「予備校へ通う」という手段を準備した親。
どちらも自然です。しかし結果はあまりいいものではありませんでした。

結果論で語ることはあまり好きではないのですが、しかしこの例から学ぶことが出来るのが、タイトルにもある「子どもの“本当にやりたいこと”の見極め」と「それに伴う“スピード感”」です。
今考えると、当時の僕が言う「大学へ行きたい」の裏には「そう言っておけば自分自身の存在意義が保たれる」という思いが強くありました。
「自分は何もしていない、何も考えていないわけじゃなくて、ちゃんとこれからのことも考えているんだよ」というアピールのような言葉でもあったのです。
もちろん大学進学という選択肢に興味はありました。しかし具体性や計画性は全くありませんでした。
その具体性や計画性を準備してくれたのが、「学力不足を補うために予備校へ通う」という提案をした親でした。
その提案をのまないわけにはいきません。大学へ行きたいと言い出したのは他ならぬ自分自身です。
これにより、「自分の存在意義をアピールするために言った言葉」が、実行可能な事柄に変化しました。

そこに“スピード感”が加わります。
自分自身が、今できることかどうかを考える暇もなく、予備校見学→入学という流れにのってしまったのです。
もちろん親は勝手に決めたわけではなく、その都度僕にこれでいいかと確認をしてきました。
言い出した自分、準備してくれた親、うまくいくかもしれないという期待、なんとなく断りづらい雰囲気のまま、僕は「いい」と答え続けたのです。

子どもは様々な理由によって「○○してみようと思ってる」と口にします。
そのすべてに親が全力で準備をし、応えようとしてしまえば、お金と時間が足りなくなったり、期待が裏切られたりすることは多いです。
子どもが「やりたい」と言い出した時には、まず冷静になることが大切です。
本当に子ども自身がやりたいと思っていたり、自分に必要だと思っていれば、ある程度までは自分で準備をします。
その準備の段階で子どもは、それが現状の自分にできそうかどうかを判断します。
その過程を経てこそ、自然に動き出すという行動に繋がります。
もちろん親の手助けが必要な場合は多いでしょう。
しかしそれは、親の側から準備する、お膳立てするということではありません。

もし仮に子どもが言い出した「やりたいこと」が、子ども自身その時はそこまで本気ではなかった場合、しばらく経つと言わなくなったり、口に出すだけで調べたりせず具体的になっていきません。
言い出した「やりたいこと」が嘘だというわけではありません。その場合は子どもが「やりたいこと」を言い出した別の意味があると考えられます。
「やりたいこと」をいくつも言ってくる場合は、時間をかけて聞きながら、数が絞られていったり、具体性のある「やりたいこと」がどれなのかを聞いてみてください。

また、子ども自身「やりたいこと」に対して自分で自分に大いなる期待をかけていることもあります。
厳しい話になりますが、「できそうか」というのも判断基準になります。
「今のあなたには無理でしょ」ということではなく、親も子どもも冷静になれるように時間をかけ、考えていくことが大切です。

子どもが口にする「やりたいこと」が、実は「親がやってほしいこと」を反映しただけの場合もあります。
「子どもが言ってるから・・・」が、ただの押し付けにならないことを願っています。

ネガティブな言葉は貴重な言葉

不登校やひきこもりをしている子どもが、ネガティブな言葉を口にすることがあります。
「死にたい」「消えたい」「生まれてこなければよかった」という直接的な表現は言葉としてわかりやすいですが、それだけではなく「苦しい」「つらい」「助けてほしい」「どうすればいいかわからない」というような言葉も、言葉としての意味だけではなく雰囲気や状態などを合わせてみるとものすごくネガティブに見えることがあります。
絞り出すような声で、時には涙とともに、まるでロウソクの火が段々と小さく弱くなっていくような。
そんな子どもの姿を目にしてしまえば、かける言葉は見つからず、心配と不安が一気に押し寄せてくるかもしれません。

そういった言葉が出てくる時は、確かに子どもの状態は良くないでしょう。その時点での“どん底”かもしれません。
当然その瞬間を軽くみてはいけないのですが、それは命の危険があるということが大きな理由ではありません。
絞り出されるように出てきたネガティブな言葉は、とても貴重な言葉だからです。では貴重というのはどういう意味なのか。

絞り出されるように出てきたネガティブな言葉というのは、子どもにとっては普段は絶対に、口が裂けても言えない言葉です。
それは自分自身の心のバランスを保ってきた最後の支えを破壊する言葉であり、支えてくれている親を地獄に突き落としてしまう言葉であり、自分自身の無価値、不要感、果ては生きていくことの意味を見出せない現実をすべて受け止めなければならない言葉だからです。
つまり、そういう意味を持つ言葉を親に対して口にするということが、“自分自身を強く否定すること”と“親を強く傷つけ、より負担をかけてしまうこと”につながるので、口が裂けても言えない言葉なのです。

なので子どもは親の前ではそういった言葉を口にしない場合が多いです。
仮に子どもが自身の不調や不安定を自らで感じたときにはネガティブな言葉を口にするでしょうが、ひとりの時であったり自分の部屋の中でだったり家族が寝てしまった後であったり、とにかくさとられないように気づかれないようにしています。心配をかけまいと不調や不安定であることを隠そうとする場合もあります。
逆に言えば、子ども自身が不調や不安定になっていることを、周囲の人が気づくのは困難だということです。普通に見えても、実はその時がものすごく落ち込んでいる時かもしれないということです。
もちろん親に出せる、出しやすい苦しみもあります。
でも本当に、真に苦しいという時には、切ないけれど隠してしまうのです。本当はそんな時こそ支えてほしいし、親としても支えてあげたいのに。

僕が絞り出されたネガティブな言葉が貴重だと考えている理由はそこにあります。
口が裂けても言えない言葉が出るということは、子どもが、もうひとりでは抱え込むことができなくなっているということです。
隠す余裕も、親を傷つける懸念も、自分自身への強い否定も、そういったことを考えたり、そういったことが頭をよぎる隙もないほど限界で、傷つくことも傷つけることも厭わず、押さえることができずに溢れてしまった言葉なのです。
普段なら気づくことができなかった子どもの真の苦しみに、その瞬間気づくことができるのです。

また、そういった言葉を聞くことができたということは、子どもにとってあなたが“出せる相手”であったということです。
どんなに限界になったとしても、子どもは誰にでもは言いません。
傷つけるであろう言葉でさえも、きっと受け止めてくれるだろうとどこかで思っているからこそあなたの前で言うのです。

少し前までネガティブな言葉を口にしていたのに、時間が経てばケロッとしている場合もあると思います。
そういう姿を見るとネガティブな言葉の信憑性を疑ってしまう親の方もいるかもしれません。
「気を引くために言っているのだろう」「できないことの理由付けだろう」「言えば甘やかされると思っているのだろう」などと思っていませんか?
子どもは“この人には言えないな”と思っている人には決して言いません。

親と子の視点の違いを考える

不登校やひきこもりの最中に、親と子どもがお互いに「相手の言っていることがわからない」「相手が何を考えているのかわからない」と思うことがあると思います。
言動や思考、ズレていく親と子。
その原因のひとつが“親と子の視点の違い”だと僕は考えています。

相談などを受ける中で、多くの親の視点は“将来”にあります。もっと詳しく言えば“将来の自立”です。
仮に「学校は行けないなら行かなくていい」「無理して働かなくていい」と思ったとしても、でも、いや“だからこそ”将来の自立に向けて…という考えになるのでしょう。
ひきこもっている子どもと共に親自身も高齢化していっている場合、「私が死んだあと…」と仰る親の方は多く、最近では10代の子どもの親も「いつまでも私が(私たちが)いるわけじゃ…」と口にします。
その“将来の自立”に視点があった状態で子どもを見るとどうでしょうか。
学校にも行かず(行けず)、社会との関わりも極端に薄い状況の子どもは、将来どうなるのだろう、将来のことをどう考えているのだろう、となります。
親として子どもの将来を案じ、様々な選択を提示しても一向に受け入れない子どもは、まるで現状を放置しているように見えるのではないでしょうか。
子どもの将来の自立を考え、そのために動く。
親として。

親に“親として”があるように、子どもにも“子として”があります。“子として”というよりも、“自分自身として”の方が正確かもしれません。
多くの親の視点が“将来”にあるのに対し、不登校やひきこもりの子どもの視点は“今”もしくは“過去”にあることが多いです。
“今”とは文字通り今のことですが、もう少し細かく言うと“ほんのちょっと先”です。
1時間後とか、明日とか。
不登校やひきこもりの状態は、その多くが自分を責め続ける日々です。そんな、自分自身の生きる意味さえも揺らいでしまう毎日の中で、今日を乗り切ることは本当に大変なことです。
「明日の自分」「明日どうするか」そういう部分に視点を合わせている子どもにとっては、将来の自立は遠すぎてまったく想像がつかないし、その将来に自分が生きているという想定すらできていないかもしれません。
自分が生きているかもわからない将来のために、ただでさえ苦しい日々をより苦しむ場所に行かされる子どもは、余計に追い詰められます。例えその選択が一般的には正道であったとしても。

“過去”は文字通り過去です。
過去の出来事や選択、自分自身など、様々な過去があり、“その結果の今”との折り合いがつかずにいる状態です。
変えられないものに視点を合わせても無意味だと思う人も多いでしょう。しかし、過去と向き合う時間なくしては自分らしく生きられないと思う子どもは多いです。
過去と向き合う作業は苦しく、痛むことばかりです。子ども自身の中で変えられない過去の折り合いをつけていくということが、これからを生きていくためにとても重要だということを、僕は自分自身の経験と、出会ってきた子どもや当事者から知りました。
「過去と向き合うことよりも、それらを忘れてこれからのことを…」という考えに沿って生きていく中で、いつ目を背け封印していたものが噴出するかはわからず、それにビクビクしながらの日々を自分らしく生きていると言えるでしょうか。
より遠くなってしまった過去と向き合うことは、今向き合う以上に大変です。

子どもの“今”と“過去”視点は、今この瞬間にある自分の命を守る視点です。
様々な負の感情が襲ってくる今をどう乗り越えるのか。過去に奪われてしまった自分を、どう今に蘇らせるのか。
限りなく今この瞬間を見つめている子どもの視点と、将来を見つめている親の視点では、どうしてもズレが出てきます。
将来のための正論が通じないのはここにひとつ原因があります。

将来のための選択が、より子どもを追い詰める選択になる可能性。
将来のための選択が、子どもが過去と向き合う時間を奪う選択になる可能性。
大切なのは将来のことを考えないということではなく、視点をなるべく合わせて子どもと関わるということです。
今消える命に将来はない。
だからこそ今この瞬間に視点が合うのだと思います。

“変えよう”としない関わり

不登校やひきこもりの子どもに対してどのような声かけをできるのかというのは、多くの親の方が悩んでいます。
親の方から相談を受けていると「子どもに『学校に行け』って言わないほうが良いんですよね?」と尋ねられることも多いです。
単純な良い、悪いでなかなか判断できないのは、子どもひとりひとりの境遇などの違いの他に、良い、悪いで話をしてしまえば、それを受け取る個人個人の言葉に対するイメージや感覚の違いに大きく依存してしまう可能性があるからです。

僕が子どもや青年と関わる上で大切にしているのは、“相手を変えようとしない”ということです。
悩みや不安、現状を聞いていると、ついつい相手を変えようとしてしまいます。
「学校に行けないなら居場所に来てみたら?」「あなたには自分の生き方を自分で決めて伝える権利があるんだよ」「いきなり働くのは難しいかもしれない。まずは人と話すところから始めてみよう」「親といきなり何でもかんでもは話せないかもしれないから、まずは挨拶から始めてみようか」「ゆっくり、マイペースでいいよ」「無理せず、そのままでいいよ」などなど。
こういった声かけ、悪い、というわけではありません。子どもや青年の気持ちに立ち、無理せず、でも少しずつ前進していけるようにとの思いが込められている気がします。

しかし一方で、こういった声掛けが、子どもや青年の“今”を否定している可能性もあります。
子どもや青年にとっての“今を否定される”とは、「このままの自分ではいけないんだ」と周囲から思わされてしまうことです。

「学校に行けないのならせめて居場所に行ける自分にならないと」「働けるようになるために人と話せる自分にならないと」「親といい関係を築ける自分にならないと」「マイペースで生きられる自分にならないと」「無理せず、このままの自分でいないと」。
上記の声かけによってこのように考え、今の自分ではダメなんだ、変わらなければと強く思い、そして自らを追い込んでいく子どもや青年もいます。
それは、子どもや青年の“今”の否定です。今のままではいけないよ、というメッセージを送っていることになるのです。

“今のままではいけないよ”というメッセージを送ってくる人を、信じられるでしょうか。
苦しく、不安で、先も見えず、味方もいない状況の中で、今のままではいけない、でもそれはあなたのためだよと言われて、いい関係になっていくでしょうか。

こんな風になったのは自分だけの責任ではない、望んでこうなったわけじゃない。そう思っている人がいたとして、その人に「でもあなたが変わらなきゃ」というメッセージを送れますか。
もし仮に僕がそのようなメッセージを受け取った場合、おそらくこう思います。

「なんで僕の方が変わらないといけないの?」

その“子ども像”は本当にあなたの“子ども像”?

親には理想の子ども像があることが多いと思います。
もちろん親だけではなく、例えば祖父母なら理想の孫像、教師なら理想の生徒像、社会にとっての理想の子ども像なんかもあるのかもしれません。
このような理想の○○像が、不登校やひきこもりの子どもや青年を追い詰めている可能性があります。

親を例にして挙げれば、わが子が生活に困らないようにとか、少しでも幸せにとか、少しでも良い人生をとか、そのような思いを持つことは多いでしょう。
そういった子どもを思う気持ちから、自然と理想の子ども像が生まれてくるのだと思います。とても優しい、大切な気持ちです。
学校には行っていないより行っている方が将来が安定しそうです。苦労するよりは学校行って少しでも安定した将来を。
仕事に行けていないのなら、今はまだ親がいるからいいけれど、親がいなくなった後に苦労するだろうから今の内から少しでも働けるように。
当然です。

では子ども側からそれがどのように見えるのか。
「学校に行けない自分より行ける自分の方が親にとっては良い子なんだ」「結局働ける子どもの方がよくて、働けていない子どもはダメなのか」。
“いやいやそういうことじゃないのよ!”と思う親の方、多そうです。
でも正直、子どもにとってはそう見えます。そう聞こえます。それはおかしな受けとめでしょうか。おかしな捉えでしょうか。
そうは思いません。
子どもが見ているのは、親が“親にとっての理想の子ども像を変える”のか、“現実の子どもの方を変えようとする”のか、という部分です。この“親”は冒頭にもあるように、祖父母、教師、社会などにも置き換えることができます。

理想だなんてそんな大それたもんじゃない、と思う方。
子どもや青年にとっては、“そんな大それたもんじゃないことすらできない”と捉えられます。

苦労しないように、少しでも幸せに。
その思いの、優しい思いの背景をもう少し考えてみてください。
苦労しないための方法、少しでも幸せになれるような進路、道筋。それに沿わなければ、それらは叶わないのでしょうか。
沿った方が叶いやすいという根拠、どこから来たものでしょうか。
それが今の子どもの現状に即していますか?

子どもも理想の自分像を持ちます。
不登校やひきこもりの子どもや青年の場合、その理想の自分像はその人本心の、というよりは、社会や親や教師などの様々な他者の影響が色濃いことが多いです。
その姿を見ると、時々縛られているように見える子どももいます。
様々な他者の影響を受けた理想の自分像に、少しでも近づかなければともがき、とても手が届かないと自分を責め、期待に応えられず申し訳ないという思いを抱えて動けなくなっています。

様々な他者から影響を受けた理想像。
子どもだけではなく、反転して考えられないでしょうか。
その子ども像は本当にあなたの理想ですか?
どこから来たのかよくわからない理想の子ども像に、子どもの方を変えることで近づけようとしていませんか?