アザゼル


前200年頃『レビ記』第16章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
 そしてアロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当たったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。しかし、アザゼルのためのくじに当たったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをし、これをアザゼルのために、荒野へ送らなければならない。
 かなり唐突にアザゼルの名が登場する。アザゼルは荒野に住む邪霊らしいが、ここではYHVHと同等に扱われている。しかも、YHVHに当たったやぎは殺され、アザゼルに当たったやぎは生かされるのだから、やぎにしてみれば、アザゼルは救い主でないかい。

8世紀頃『エチオピア語エノク書』第6章(日本聖書学研究会編『聖書外典偽典5』より)
 アザゼルは剣、小刀、楯、胸当ての造り方を人間に教え、金属とその製品、腕輪、飾り、アンチモンの塗り方、眉毛の手入れの仕方、各種の石の中でも大柄のよ選りすぐったもの、ありとあらゆる染料をみせた。その後、はなはだしい不敬虔なことが行われ、人々は姦淫を行い、道をふみはずし、その行状はすっかり腐敗してしまった。
 『エノク書』は聖書正典外典偽典の中でも、最も天使が活躍する書である。エチオピア語版は8世紀頃の写本とされるが、もとのアラム語版は前3世紀に遡ると考えられている。ここでのアザゼルは、『創世記』で人間の娘たちに魅せられて堕天した天使の一人とされている。人間に文化を与えたのは、この天使たちで、今日女性が眉毛の手入れができるのも、アザゼルのおかげである。しかし、アザゼルらはミカエルら天の軍勢に捕らえられ、裁かれることとなる(ちなみに、アザゼルは天の軍勢からは「サタン」と呼ばれている)。なお、参考にした『聖書外典偽典5』は5400円と高いが、講談社文芸文庫の『旧約聖書外典』icon(1050円)にも抄訳がある。

1531年コルネウス・アグリッパ『De Occulta Philosopia』第3巻(JD訳)
 ヘブライの師は言った。私達の体は肉欲の動物であり、私達は誰でも、『レビ記』の中で砂漠の王子と呼ばれる、この世の王子アザゼル、『創世記』の中で「おまえは一生塵を食わねばならない」と言われた悪の蛇のために、肉体の問題が残されているのだ。
 この部分しか訳してないが(汗)、ここにはアグリッパがアザゼルをエデンの蛇とみなしていたことがわかる。人間の娘らを誘惑したことと、イヴを誘惑した蛇を重ねあわせたのだろうか。

1667年ミルトン『失楽園』icon第1巻(平井正穂訳/岩波文庫)
 その栄えある任務を、自分の当然の権利として買って出たのが、堂々たる智天使アザゼルであった。彼は、すぐさま、煌めく旗竿に巻きつけた帝王旗を解きほどいてうちふった。大旗には,宝石や黄金色に輝く飾りが燦然と鏤められ、それに天使の紋章、戦勝記念の意匠などが描かれていた。それが翩翻と翻り煌めくさまは、風に流れる流星さながらであった。
 旗振り役として登場。

1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』アザゼルの項(床鍋剛彦訳/講談社)
 山羊番の二級魔神。ユダヤ人が七番目の月(ユダヤの七月は九月に相当する)の一〇日を贖罪の日として祝うとき、クジを選んだ二頭の牝山羊が大司祭の前に引き出される。一頭は神のため、そしてもう一頭はアザゼルのためである。
 『レビ記』の記述に添った記事。ユダヤ教では9月10日を「贖罪の日(ヨム・キプール)」として、神に悔い改めの祈りを捧げる日とされている。現在では、山羊ではなく、鶏が贖罪の肩代わりにされているらしい(学研『ユダヤ教の本』iconによる)



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