モロク


前200年頃『レビ記』第20章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
 イスラエルの人々のうち、イスラエルに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクに捧げる者は、殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。私は顔をその人に向け、彼を民の内から絶つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚したからである。その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族に向け、彼および彼を見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべての民のうちから断つであろう。
 これはヤハウェ自身がモーゼに語った訓戒のひとつ。このようにモレク信仰者は、その子供をモレクに捧げているとされていた。実際に子供を生贄にしていたのか、私にはわからないが、一言付け加えておくなら、『創世記』22章でヤハウェ自身が、アブラハムの信仰を試すために、子供を犠牲にさせようとした。また、「間引き」という風習は日本でも行われていたし、現代でも胎児を犠牲にする行為は行われている。

前200年頃『列王紀上』第11章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
 そしてソロモンはモアブの神である憎むべきものケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。
 ソロモンは妻達のためにモレクの拝殿をたてた。

前200年頃『列王紀下』第23章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
 王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペトを汚した。
 この王はヨシュア王で、徹底的な宗教弾圧のひとつ。モレクは主にベンヒンノムの谷にあるトペトで信仰されていた。この「ベンヒンノム」が後に地獄を表す「ゲヒナ」の語源となった。

前200年頃『イザヤ書』第56章(日本聖書協会訳『聖書』iconより)
 あなたは、におい油を携えてモレクに行き、多くのかおり物をささげた。またあなたの使者を遠くにつかわし、陰府の深い所までつかわした。
 この前に、「谷の中、岩のはざまで子どもを殺した」とある。その少し前には「あなたがた女魔法使いの子よ」とあるので、もしかすると巫女的な存在がいたのかもしれない。

1667年ミルトン『失楽園』icon第1巻(岩波文庫)
 それらのうちで最初に来たのが、人身御供の血にまみれ、親たちの流した涙を全身に浴びた恐るべき王モーロックであった。火焔のなかを通って、彼をかたどる像のもとへ進んでいく阿鼻叫喚こそ、大太鼓小太鼓の喧しい音にかき消されて耳には聞こえなかったが、涙を流さぬ親はいなかったのだ。彼は、ラバとその周辺の豊潤な平野、アルゴブとバシャン、さらに遥か遠くアルノンの河の流域にいたるあたりまで、アンモン人に拝まれた。。
 第2巻では「彼こそは、天において戦った天使のうち最も強く、最も獰猛な者であった」とされているが、第6巻で天使ガブリエルに「腰のあたりまで斬切り裂かれて」殺された。余談だが、ラバは『サムエル記下』第12章に出てくる、アンモン人の首都で、ダビデ王に占領された。占領後、ダビデはアンモン人たちを「のこぎりや鉄のつるはし、鉄のおのを使う仕事につかせ、またれんが造りの労役につかせた」という。

1812年コラン・ド・プランシー『地獄の事典』モロク(講談社)
 ラビたちによれば、アモン人の神として名高いモロク像の内部には、七つの戸棚が作られていたという。一つには小麦粉、二つには雉鳩、三つめは牝羊、四つ目は牝山羊、五つ目は子牛、六つ目は牡牛、そして七つ目は子供を入れるためのもであった。
 挿絵には、王冠を被って玉座に座る子牛の姿が描かれている。

1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』icon第二之書教理の形成と実現 第一章黎明期の象徴表現(鈴木啓司訳/人文書院)
 彼ら曰く、それは髭を生やし口を開けた偶像で、舌は巨大な陽物であるというのだ。人々はこの偶像の前で恥じらいもなく裸になり、糞を捧げた。モロクとケモシの偶像は殺人機械と言ってよく、不幸な幼子たちをときに青銅の胸に当てて押しつぶし、ときに火で赤くなった両腕に掻き抱いて焼き殺したのである。人々は犠牲者の叫びを聞かぬよう喇叭と太鼓の昔に合わせて踊り、しかも母親がその踊りを先導したのであった。近親相姦、男色、獣姦は、このおぞましい民のあいだでは習慣として受け入れられ、そのうえ神聖なる儀式の一部となった。
 と、かなり陰惨な邪神崇拝が語られてるが、これらはタルムード学者たちと、ユダヤ人のプラトン主義者フィロンなどが伝えたことだとしている。



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