鹿児島


2002年10月13〜14日
 兄が乗る予定だった高速船「マダムバタフライ」のチケットを母がもらったので、私と母とで「マダムバタフライ」に乗って、鹿児島まで旅行することになった。同じ九州内とはいえ、なかなか南九州に行く機会はなく、中学生の修学旅行ぶりの鹿児島入りだった。
 「マダムバタフライ」は長崎の大波止を出航すると、3時間40分で鹿児島県西部の串木野市・串木野港へと着く。鹿児島市とは離れている上に、辺境に設置された港だった。港についてから鹿児島市内に入るまでが不便だなあ。
 例によって、『るるぶ鹿児島』で事前リサーチしていた私は、まず串木野市の〈冠岳〉の麓にあるという、〈冠獄園〉に向かうことのした。この〈冠岳〉という名前の由来は、徐福がこの山頂に冠を置いたとことに由来しているという。そう、ここにも徐福渡来伝説が存在するのだ。串木野駅からタクシーで10分程度とされていたが、実際は30分くらいかかり、料金メーターも跳ね上がった。失敗と気づいた時には、後の祭りだった。
 〈冠獄園〉に到着すると、気を取り直してフィールドワークを開始する。〈冠獄園〉は中国風庭園だが、もともとこの近辺は古代山岳仏教の発祥の地なんだそうだ。まず蘇我馬子が熊野社とともに興隆寺を作り、次に阿子丸仙人が天台宗を開いて冠岳頂峯院と称し、その後、真言宗鎮国寺頂峯院となり、現在はその跡地に、今の〈冠獄園〉が建てられたという。中国風の庭園の隣には〈冠岳神社〉があり、その脇に山へと続く道がある。奥の方には洞窟があるらしい。
 徐福渡来伝説と山岳信仰には関係があるんだろうか?
 謎は解けないままに、また跳ね上がる料金メーターを見ながら、串木野駅へ戻ると、JR鹿児島本線特急つばめに乗り、西鹿児島へと急いだ。駅から降り立った我々は路面電車に乗り、一番の繁華街である天文館へと向い、ひとまずホテルにチェックインした。しかし、天文館って地名に思えない地名だなあ。
 今度は、桜島へと渡ることにした。鹿児島本港フェリーターミナルからフェリーに乗り、桜島へと着いた時にはすでに夕方を過ぎていた。ちなみにこのフェリー、24時間営業してる。港に着くと、また『るるぶ鹿児島』で事前リサーチしていたる〈龍神露天風呂〉へタクシーに乗って向かった。タクシーの運転手は慣れてるのか、いろいろと桜島について聞いてないのに語ってくれた。桜島は火山の島であり、この火山は今でも頻繁に小規模の噴火をしてるという。ここの島の人々は、火山とともに生きているようだ。
 目的地である〈龍神露天風呂〉は、古里観光ホテル内にある温泉だった。樹齢200年のアコウの木から温泉が湧き出ていて、この木に龍神が宿っているとされ、龍神を祀る祠が設置されているという、神秘的で珍しい温泉である。旅館から斜行エレベーターに乗り海岸へ下ると脱衣場があり、そこで背中に「南無阿弥陀仏」と書かれた浴衣に着替えてから、温泉に入るようになっている。温泉の奥には鳥居があり、龍神観世音菩薩が祀られている。日が落ちると篝火が炊かれ、より神聖な雰囲気となる。神聖な温泉で身も心も清め煩悩を捨て、これからの探求の旅の無事を祈ろうとするが‥‥若い女性も多かったので、余計に煩悩が増加したりもする。実は浴衣着用のまま入浴する、混浴風呂だったり。なお、このホテルは薩摩長谷寺が管理しており、館内に瞑想室もある。

 次の日。西鹿児島駅からJR日豊本線特急きりしまに乗り、国分駅で降り立つ。ここからバスに乗り換え、〈上野原遺跡〉へと向かった。「縄文の森」として整備されたこの遺跡は、9500年前の日本最古の縄文集落遺跡とされる遺跡である。今月、資料館が完成したばかりらしい。資料館の中にはシアターがあり、縄文人の暮らしぶりが、アニメーションで紹介されていた。物語は火山の噴火を軸としており、今から6300年前に、「鬼界カルデラ」という海底火山が大噴火し、その火砕流は薩摩・大隅半島中部まで達したという。今も頻繁に噴火している桜島にしても、古代九州の縄文人たちは、火山と共に生きていた、まさに「火の民族」なのである。
 古代、我々九州人は、桜島や阿蘇山、雲仙普賢岳といった、火山と共に生き、火山を信仰してきた「火の民族」であった。昨日行った、〈冠岳〉の山岳仏教も、その名残なのかもしれない。やがて大陸より渡ってきた太陽信仰の民族、「日の民族」によって、「火の民族」は駆逐され、日本として統一されることになる。
 7世紀頃、『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇が地方の豪族に対して討伐を行い、日本の統一を計った。当時、南九州は熊国(熊本)と曾国(宮崎南部・鹿児島)からなっており、景行天皇の息子である倭健(ヤマトタケル)に討伐されたという、熊曾建(クマソタケル)は熊・曾の首長であっただろう。朝廷に屈した熊曾族は、「隼人」と呼ばれるようになる。その名を今も伝えているのが、隼人町という町名であり、そこに《隼人塚》という塚がある。
 〈上野原遺跡〉から国分駅へと戻ると、JRの時間が微妙だったのでタクシーの乗り、隼人駅周辺へと向かった。この近くに、〈隼人塚〉はあるのだ。タクシーの運転手は、少し怪訝そうな表情を浮かべていたが、それもそのはず、着いたところは、ごく普通の公園だった。公園の中に、ぽつんと史跡がたっていた。それはなんだか、淋しい光景だった。資料館も隣接していたが、こちらは休みだった。しかし、「火の民族」の謎の中心でもある、熊曾・隼人の記憶に少しだけでも触れられて、良かったと思う。他に、熊曾建が倭建に討たれたという洞窟が今も残っているらしいが、遠いので断念した。
 熊曾‥‥〈冠岳〉に初期に建てられたのは熊野社だった。熊曾と熊野は、何か関係があるんだろうか?
 JRを乗り継いで、我々は出発点である串木野の港へと戻った。あとはマダムバタフライに乗って、長崎への帰路に着くだけだ。なんだか慌ただしい旅であり、観るところも限られてしまったが、それでも有意義な場所を探求できたと思う。私の「火の民族」仮説の完成への旅は、まだ始まったばかりであり、「大いなる祭」の日は、まだ遠いのかもしれない――。

  


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