長崎


1999年9月3日
 この日唐突に「似非観光客になろう!」として、長崎の観光巡りをしようと思ったのだが、ただの観光では面白くないので、さらに「似非切支丹になろう!」というテーマを掲げてみた。私はクリスチャンではないので、あくまでも「似非」なわけである。
 仕事が朝の10時に終わってから、湊公園の近くの駐車場に車を停めて、まずは出島の方に歩いていって、〈出島資料館(旧出島神学校跡)〉を外から眺める。江戸時代、この出島は日本で唯一海外との架け橋となっていた場所なのだが、今はその面影はなく、とっくの昔に周辺は埋め立てられている。その出島に1887年に日本で最初の神学校が建てられ、それをそのまま現在では資料館として使っているわけだ。長崎には、こうした西洋建築物を保存し、現在も使用しているところが、いくつかある。資料館は入館料200円なので、中には入らずに外から様子だけうかがうと、庭の周辺が工事中だった。たぶん、「日蘭交流二百周年記念」にあわせて、整備しているんだろう。〈ミニ出島〉なんかも久しぶりに行ってみたが、こちらも工事していた。
 それから東山手・南山手の方に戻って、〈グラバー園〉〈大浦天主堂〉へ向かう坂道を歩いていく。この坂の途中で右に曲がると、〈聖コルベ館〉という建物がある。1930年4月、長崎へ布教に来たマキシミリアノ・マリア・コルベ神父という聖者が、このあたりに住んでいたことを記念して建てられた記念館である。表の方はキャンドル屋さんになっていて、色とりどりのキャンドルが売られている。天使型のキャンドルが欲しかったが、今日はやめておくことにした。店の奥の方に、コルベ神父に関する展示物が並んでいる。おもしろいのは、販売されていたコルベ神父の伝記を描いた外国のコミックで、アメコミ調の絵柄で、コルベ神父の生涯が語られている。これによると、コルベ神父は聖母マリアを幻視し、マリアからマキシミリアンを名乗るよう指示されたらしい。日本に来た彼は、『聖母の騎士』というキリスト教の伝道誌を造って、布教に勤めた(この本は現在でも刊行されている)。その後、母国に帰った彼を待っていたのはナチス・ドイツの強制収容所で、処刑されようとした人の身代わりになって殉死されたという。身を持ってキリスト教の献身を伝えた人であり、私もコルベ神父は好きだ。
 坂道に戻って昇っていくと、正面に〈大浦天主堂〉が見える。1864年、フランスの宣教師によって建設されたゴシック様式の天主堂だ。正式名称を〈日本二十六聖人殉教聖堂〉といって、〈日本二十六聖人殉教地〉に向かって建てられているという。ここは信徒発見の場として世界的にも有名な教会で、この天主堂が建てられた時、その時まで潜伏していたキリシタン信者たちが、「サンタマリアさまの像はどけあっとー」と言ってやってきたという。1597年に二十六聖人が処刑されてから260年もの間、弾圧に耐えてきた信者がいることは、とても奇跡的な事だ。ここは先日、オフ会で入ったばかりなので、今回は中には入らなかった。250円とられるので。お金取られるだけあって、中は美術性の高いものになっている。〈大浦天主堂〉の近くには、〈旧羅典神学校〉〈大司教館〉があるが、当然のように入れない。
 〈大浦天主堂〉の少し先に〈グラバー園〉がある。でも、とりあえずもっと先に進んで、〈マリア園〉へ向かってみる。ここはよくわからないけれど、古い洋館風の造りなので、やはり歴史的な建築物なのだろう。現在では、養護施設として使われているらしく、中から子供の声が聞こえていた。さすがに敷地内に入るのは気が引けるので、外から軽く眺めてみた。
 来た道を戻って、〈グラバー園〉へ入っていく。1863年にイギリス商人トーマス・グラバーが建てた洋館を中心とし、旧三菱第二ドックや旧リンガー邸といった古めかしい洋館が見学できる。居留地時代を偲ばせるテーマパークだ。私が此処に来た理由はただのひとつ、『るるぶ長崎』の〈グラバー園〉マップで、あるものを見たからである。それを捜しに、入園料600円を払って中に入っていく。〈グラバー園〉は山の斜面の坂に建っているような感じだが、「動く歩道」が設置されているので、上までは楽々に上れる。もう九月に入ったというのに、まだ夏休み中の大学生が多く、まだまだ観光客はいる模様。一番上の旧三菱第二ドックハウスからは長崎の港が一望でき、なかなか良い眺めである。そして、旧リンガー邸のところまで降りていった時に、ついにそれを発見!! それは、〈フリーメーソンロッジの石柱〉と呼ばれる柱である。もともとは門だったらしく、二本の柱の上部に、フリーメーソンのマークである定規とコンパスが描かれている。さすがに、現在では風化してしまっており、はっきりと見ることはできないが、かすかにそれだとわかるラインが残っている。本などでフリーメーソンのマークを見た事はあったものの、実物を見るのは初めて。長崎に、フリーメーソンの痕跡があったとは、灯台もと暗しである。どうやら、グラバーらイギリス商人たちは、メーソン会員だったらしい。「似非切支丹」である以前に「悪魔主義者」である私には、感動的な光景だった。
 〈グラバー園〉を出て、〈お告げのマリア修道院〉というところを探してみたが、何処にあるのか、よくわからなかった。あきらめて湊公園の方へ戻り、〈唐人屋敷跡〉の方へ歩いていく。このあたりはその名の通り、1689年に唐人街ができたところで、すぐ近くに現在もチャンポンで有名な中華街がある。現在は〈唐人屋敷跡〉付近は商店街になっているので、商店街に入って歩いていると、まず右手に〈土神堂〉がある。さらに進むと、左手に〈天后堂・観音堂〉がある。今年の2月に「長崎ランタンフェスティバル」という、中国正月にあわせたイベントが行われ、その時にこの〈天后堂・観音堂〉に納められたご神体の女神像が、御輿に担がれて繁華街を歩いていくパレードがあった。この時初めて知ったのだが、この女神の名を天上聖母という。海上安全の女神として、渡来してきた中国人たちの間で、信仰されていたらしい。すなわち、道教におけるマリアなのである。

 駐車場に戻って、車で移動。蛍茶屋の方へ向かい、本河内にある、〈聖母の騎士修道院〉へ。ここはコルベ神父が開いた「聖母の騎士」の、現在の中心地である。コルベ神父が出版した冊子『聖母の騎士』は今現在もなお、ここの人達によって出版され続けている。また、幼稚園・中学・高校もあって、私も中学の時に高校の受験先を選ぶ時、名前だけでここを受けようかと思ったが、結局、やめてしまった。もしここに通っていたら、180度人生が変わっていたかも知れない。というか、ここの方が市内に近いので、便利だった気もする。また、敷地内に〈コルベ記念館〉があって、大浦の〈聖コルベ館〉同様、無料でコルベ神父の偉業を知ることができる。山の方に上っていくと、コルベ神父が切り開いて造ったという、〈ルルドの泉〉がある。まあ、長崎にはここの他にも、何カ所か〈ルルドの泉〉はある。ちゃんと、ベルナデットの像が、マリアを見上げている。泉に手を浸してみると、冷たくて気持ちが良い。さすがに飲もうとは思わなかったが、軽く身体にかけてみる。なんか、身体の悪いとこ直してくれないかなあ。
 路上駐車してしまっていた車に戻り、今度は長崎県立美術館へ向かう。ここには、美術館に通じる階段の下のところに、〈山のサンタマリア教会跡〉の碑が建っている。その昔、ここに教会が建っていて、その様子は海からも見ることができたのだという。とはいえ、現在はこの碑があるだけで、どんな様子だったのか、まったく見当がつかない。
 美術館から裏道を車で走って、NHKの上にある西坂公園の〈日本二十六聖人殉教地〉へ。ここは、1597年にペテロ・バプチスタ神父以下6名の外国人宣教師と20名の日本人信者が処刑された地である。中にはわずか12歳の少年もいた。京都から長崎までの長く辛い旅をした後、自らこの地を選んで十字架にかけられたのだという。公園内には26人の聖人を刻んだモニュメントがあり、その向こうには〈日本二十六聖人記念館〉があったが、やはり250円とられるので、入らず。
 この近くに〈本蓮寺〉というお寺があり、そっちにもいってみる。ここには〈サンジョワン教会跡〉という碑がたっており、その昔、キリシタン弾圧の中心となった寺だったそうだ。それから少し歩くと、〈長崎観音〉といって、霊亀の上に乗った観音像があるところにつく。バスに乗った時なんか、長崎駅の方からよく姿を拝見していたけれど、こんなに近くで見るのは、はじめて。かなり、でかかった。原爆の被害から長崎が復興した事を記念して造られたもので、この観音様は戦争で亡くなった人達の御霊を導いてくれているんだろう。ちなみに、ここの地下には、なぜか「フーコーの振り子」が展示されているらしい。
 また車に戻って、今度は浦上の方に移動。このへんは友達が近くに住んでいるので、実際にイヤと言っている程、通っている。〈浦上天主堂〉の外観なんかは、見飽きてしまった。この教会は明治維新後、信仰の自由を得た浦上の信者たちが、33年もの歳月をかけて1914年に完成された大聖堂である。昭和20年の原爆で一瞬のうちに全壊したものの、昭和34年に再建された。現在も長崎の中心的なカトリック教会になってる。外からはよく見るけれど、中にはめったに入らないので、今回入ってみることにした。天主堂の中に入ると、ロープがはってあって、どうも椅子が並んでいるところまでも入れない様子。後ろの方から、中の様子をうかがうのみ。中は、パイプオルガンの音色が響いていて、とてもよかった。実際に弾いているのか、CDなのかは定かでないけれど、聴いた印象としては、生っぽい。
 〈浦上天主堂〉の先に〈浦上カトリックセンター〉があって、そこから道が「アンジェラス通り」と「サントス通り」にわかれる。「アンジェラス通り」は完全に名前負けしているので、「サントス通り」を走ると、右手に〈如己堂・永井記念館〉が見えてくる。ここは原爆にあって妻を失い、被爆者の治療に全力を尽くしながら、自らも白血病と闘った永井隆博士の家で、幼児2人と6年間住んだ、わずか2畳一間という小さな家だそうだ。永井博士はカトリックな方で、〈如己堂〉の玄関には十字架が象られている。しかし、現在は工事中で、見学できそうに無い様子。あきらめて、〈平和公園〉の方に行くことに。
 〈平和公園〉の駐車場に車を止め、〈平和公園〉の中を歩く。巨大な〈平和記念像〉で有名な公園だが、実際に原子爆弾が落ちてきたのは、この近くにある、〈原爆落下中心地〉の方である。なので、そちらに歩いていく。〈原爆落下中心地〉も公園のようになっていて、御影石で造られた塔が建っている。そのそばには、原爆で破壊された〈浦上天主堂〉の壁の一部が建っており、原爆の傷痕を今もなお示している。ちなみに、その昔、この浦上付近の人達は、キリシタンの地域と言うこともあって、他の地域よりも蔑視されていた。やっとキリシタン弾圧が住んで信仰の自由の時代が来るかと思ったら、戦争が起こって原爆が落ちてきた、まさに苦難の連続である。でも、そんな中でも、やはり被爆者を救い続けた永井博士のように、献身的なキリスト教徒もいたわけだ。長崎から部落差別がなくなったのは、皮肉にも原爆が落ちてきて混乱状態になったからだと、昔、学校の先生に教わった。

 さて、車は少し遠出をし、長崎市内から出て、西彼杵郡外海町へと向かう。その町名の通り、海に面した海岸線の道路をずっと走っていくので、夏なんか走ってて、気持ちがいい。このへんは私のドライヴ・コースなので、天気の良い日に、黒い不吉なトゥデイを見かけたら、私が乗っているかもしれない。このあたりはカトリックの作家遠藤周作が隠れキリシタンを題材にして書いた小説『沈黙』の舞台となった場所である。隠れキリシタンの里であり、1879年にフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父が赴任している。
 まず最初に『沈黙』の舞台となる黒崎にある、〈黒崎教会〉へ。ゴシック様式の堂々とした礼拝堂で、赤レンガ造りになっている。それから海岸線から脇道へ入り、山道を通って〈サンタ・マリア広場〉へ。少し坂を登ったところにあるので、下に車を止めてから歩こうかと想ったものの、車の止められそうな場所は満車状態だったので、そのまま車で上へ。広場の近くのスペースに車を止める。車から出ると、まずイエス・キリスト像を見ることになるんだが、どうにもこのイエス像、マヌケに見えてしかたない。なんだかグリコキャラメルの絵柄のランナーを想起させるポーズである。ここは山の斜面に段上に整備された、ちょっとした広場で、上に王冠を抱いたマリア像がたっている。今まで見た中でも、最も威厳有る力強いマリア像に思える。私が興味ひかれたのは、その向こうに見える山の中の巨大な岩だった。山の中に巨大な岩が突き出てるのが、このマリア像の場所からだとはっきり見えるのである。もしかすると、本来この場所は、この巨石信仰のための場所だったんでは?と思えてきた。またひとつ謎が。車に戻ると、下からシスターなおばさんが登ってきていて、「こんにちは」と挨拶をされてしまった。とりあえず、スマイル返しをしておく。
 〈サンタ・マリア広場〉から、そのまま真っ直ぐ山道を突き進んで、〈大野教会〉へ行く。正直言って、この教会には来たくなかったんだが、ここまで来た以上は引き返す事もできないので、行ってみる。なんで行きたくないかというと、なんとも言えない山の中にある教会だからだ。間近まで車で行けるのはいいが、車を降りると、蚊や虻があたりをブンブン飛び回っている。この教会はド・ロ神父が建てた物で、石造りの教会である。建てた当時からそのままになっているんじゃないかと思うほど、古代遺跡化している。もう少し、丁寧に扱ってもいいんじゃないのかなあ。綺麗なマリア像が、唯一の救いだった。
 海岸線へ戻って、引き返すような形で走り、〈出津教会〉へ行こうとしたものの、工事中で教会まで車で降りることができなかった。この教会は、白亜のとても綺麗な教会である。やはり、ド・ロ神父が建設したものだ。上から少し眺めてから、〈歴史民俗資料館〉へ行き、そこに車を止める。この近くには〈沈黙の碑〉といって、遠藤周作の文碑がある。ここから外海の海がよく見えるので、『沈黙』で葛藤した人々に想いをはせながら、眺めてみると一興。少し歩いたところに〈ド・ロ神父記念館〉があるのだが、入口がしまっていたので、入るのは断念。このあたりは、ド・ロ神父ゆかりの史跡がいくつかある。
 〈歴史民俗資料館〉の駐車場に戻って車に乗り、事前に『るるぶ長崎』で「ド・ロ様定食」があるらしいとチェックしていた、すぐ近くの〈日浦亭〉へ入ってみる。入ってみたはいいが、誰もいない。やはり、こんなところでは、客は入らないのだろうかと思ってしまった。ここは和食屋で、奥の方が座敷になっているので、そっちの方に入ってみる。ズカズカと入って行っても従業員が出てこないので、わざわざ呼びに行ったり。メニューに「ド・ロ様定食」があるのを見つけてホッとし、それを注文する。「ド・ロ様定食」は、小鉢(ひじき)、御飯、香の物(漬け物)、デザート(葡萄)、それからド・ロ神父が製法を教えたというソバがメインで、500円也。低価格なのが魅力的だが、腹の足しには、なりにくい。<日浦亭〉は海を見下ろすところにあるので、景色はなかなか良い。ドライヴに立ち寄るには、ちょうどいい店だ。というか、この辺、他に店は無い。
 思ったよりも、時間が早くすんだので、黒崎に戻って〈ジワン枯松神社〉の方にも行ってみることにした。ここはなんでも、日本に3つしかないキリシタン神社のひとつらしい。山の中の車道をグングン昇っていくと、グランドがあって、そこの駐車場に車を止められるようになっている。そこからまた、山道を徒歩で歩いていく‥‥くそっ、今回も山歩きか。少し山道を登っていくと、それらしい建物が見えた。神社というよりは、たんなる小屋だ。あんまり、風格とか感じられなかった。なんでも、その昔、この付近にサンジワンという伝道師が住んでいて、住民から尊敬されていたらしい。この神社は、そのサンジワンの墓の上に立てられたんだそうだ。右の方に小さな石碑があったので、それを見てみると、「マリヤ松井子女」という名前が刻まれていた。マリヤの名の日本人信者の墓らしい。ここの解説文を読んでいて興味深かったのは、外海のキリシタンの人達は、巨石の近くで儀式を執り行っていたと書かれていたことだ。巨石というのは、〈サンタ・マリア広場〉から見えた、あの巨石の事なのか? いずれにしても、この神社は古来の信仰とキリスト教が結びついた、興味深い例である。

 思ったよりも、楽にこれらを見て回る事ができた。もちろん、外から見ただけの場所が多いんだが。そのまま外海の海岸線から長崎市内に戻り、ずっと海岸辺を走って私の住んでいる福田本町へと帰っていく。家の前を通り過ぎてから、最終ポイントである〈神の島教会〉へ。
 神の島という場所は、長崎港の入口と呼べる場所である。神の島という地名の由来は、神功皇后に関係しているらしいが、詳しくはしらない。現在では、神功皇后の代わりに、聖母マリアが長崎港の守り神として、この神の島の岬に鎮座してらっしゃる。神の島の波止場から更に海の方を見ると、岬というか、ちょっとした小島にマリア像が立っているのが見える。去年、伊王島行きのフェリーから見たことはあったが、近づいて見たことはないので、今回行ってみることにした。住宅の間の道を通って浜辺へ降りて、満ちたら帰れなくなるんじゃないかと思う道を通って、マリア像の立つ岬へ向かう。階段を上っていき、大きなマリア像の正面に立つ。うーん、あんまり綺麗じゃない。足下の台座には、マリアを讃える詩が書かれてあった。星と海の守護者マリアみたいなニュアンスの詩だったと思う。台座に献花されているのを見て、そういうば私はマリア像に対して、どうやって敬意を払えばいいのか、知らない事に気が付く。今度からは、花を持参してくることにしよう。それにしても、今日はいろんなマリア像を見たなあ。
 階段を下っている途中で、何やら神像が飾ってある小さな祠をみかけたが、こちらはぜんぜん手入れされていない様子。新しい女神がいれば、古き神々は必要ないのか‥‥。波止場に戻って山の方を見上げると、〈神の島教会〉が見える。ここも白亜の美しい教会だ。階段上るのがきついので、ここは下から眺めるだけにして帰ることに。ここはよく来るので、今更行ってみたりする気はなれなかった。去年のクリスマスには、イリュミネーションが飾り付けされていて、とても綺麗だった。やはり教会巡りはクリスマスにかぎるので、たぶん今年のクリスマスも来てしまうことだろう。

 このようにして、私の「似非切支丹」の旅は終わった。普段、何気なく通っているようなところでも、視点を少し変えてみれば、面白いものが発見できるという話である。


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