長崎


2001年1月
 毎年、長崎では「長崎ランタンフェスティバル」というものが開催されています。これは本来「春節祭」と言って、旧正月を祝う祭であり、みんなでチャイナコスをして楽しもう!というだけの祭ではありません。2001年は1月24日が旧正月だったので、この日からスタートしました。この「春節祭」は別名を「灯籠節」と言い、盛大にランタンを灯すのが習わしになっているらしいですね。長崎では、新地中華街の華僑の人々によって行われていたものが、いつのまにかこんな冬のビックイベントになっていたわけです。

 この「長崎ランタンフェスティバル」の目玉イベントとなっているのが、土日に行われた「皇帝パレード」と「媽祖行列」のふたつのパレードです。「皇帝パレード」は文字通りなので、何の説明もいらないと思いますが、「媽祖行列」というと、長崎人でもなんのこっちゃと思うのではないでしょうか。観光客ならなおさらで、この「媽祖行列」を見ながら、「皇帝見れた?」などと会話していた観光客もおりました。

 この「媽祖行列」については、「長崎ランタンフェスティバル」のHPに解説がされているので、手抜きしてコピー&張り付けしてみますと、
 鎖国時代、長崎では唐人踊り、彩舟流し、土神祭、今なお盛んに行われている盂蘭盆など、多彩な唐人行事が行われていました。中でも長崎ならではの催しとして「菩薩揚げ(ぼさあげ)」があります。これは唐船が入港し、荷役が終わると航海安全をつかさどる媽祖神を唐船からおろして唐人屋敷内の天后堂に安置し(菩薩預かり)、出航する時に再び媽祖神を唐船に安置(菩薩乗せ)するという中国独特の行列です。この行列を見るために、当時の長崎の町民たちは群れをなしたといいます。「媽祖行列」はこの菩薩揚げを再現したものです。
 とのことです。

 中国には、「道教」という独自の宗教があります。この媽祖という女神さまも「道教」の女神であり、「媽祖行列」というのは「道教」の儀式的なものでもあります。今年は雨に祟られてしまいましたが、雨の中でも中止になることなく、「媽祖行列」が行われたのは、やはりこれが宗教的な儀式であるからでしょう。「媽祖行列」を「菩薩揚げ」と呼ぶのは、この媽祖神を仏教で言うところの観音菩薩と同一視されると考えられているからです。媽祖神は別名を「天上聖母」と言い、キリスト教の聖母マリアも連想させますね。

媽祖
「媽祖行列」で運ばれていく途中、浜町アーケードの中で撮影した、
媽祖さんのお姿です。
伝承では、やはり媽祖さんは美女だったそうです。

 媽祖神は、中国の福建省甫田の林源の娘・林黙娘媽祖だと民間伝承では言われています。生まれつき普通の子と違って、一週間ほどすると仏を敬うことを覚え、三歳で字を覚え始め、四歳の頃には観音経を暗記してしまい、五歳になると更に沢山の事をおぼえる才女でした。厳通道士に導かれて、仙女としての力を授かったとされています。海難に遭遇していた父を救ったり、干ばつで苦しんでいた村に雨を降らせたり、なかなかスーパーウーマンな活躍ぶりでした。

 「媽祖行列」では、行列に2人の妖怪のような格好をした男たちが参加してますが、これは千里眼と順風耳という、媽祖に従う妖怪たちです。媽祖がとある村にさしかかった時、生け贄を運ぶ車と出会しました。この村では、二人の仙人に、毎年生け贄を捧げていて、捧げなかった時は、恐ろしい災いが村に襲いかかると話していました。媽祖は生け贄となる娘の身代わりに、自分が生け贄となる事を申し出、かわりに車に乗り込み、この二人の仙人、すなわち千里眼と順風耳のもとへ行き、彼らを退治して改心させたという話が伝わっているそうです。

福建会館
《福建会館》で行われた到着式で撮影した写真です。
手前にいるのが千里眼と順風耳で、媽祖さんを助けて悪魔と戦うヒーローになっています。
奥にいるのが道士で、祈りを捧げたり、神秘的な動作をしたりと、儀式の中心となります。

 媽祖神は福建省から海外貿易に旅だった人たち、すなわち華僑の間で信仰されました。航海の守護神とされ、海難に出会したら、その名を呼ぶと、助けてくれると伝えられています。明朝の時代、太監の鄭和が南洋群島諸国へ遣わされた時に強烈な台風が襲ってきたため、鄭和が媽祖神にお祈りをしたところ、媽祖が天から降りてきて、空から船をひき、安全に突風から連れ出してくれたというエピソードも伝えられています。華僑の発展とともに、中国の他にも台湾はもちろん、東南アジアにも媽祖信仰は広がっていき、当然日本にも訪れ、最も中国との貿易が盛んだった長崎にも根付いたというわけです。

 今年の「長崎ランタンフェスティバル」では、「ローソク祈願四堂スタンプラリー」なるイベントが開催され、十善寺町周辺の、《唐人屋敷跡》とされる、《土神堂》・《天后堂》・《観音堂》・《福建会館》の四堂を観光客たちが巡っていました。私は独りで巡るのも淋しいので、スタンプ・ラリーはしなかったですけど、見物はしてまわりました。このうち、媽祖神が祀られているのが、《天后堂》と《福建会館》の二ヶ所です。

 また面倒なので、「長崎ランタンフェスティバル」から無断でコピー&張り付けしてみましょう。まずは、《福建会館》について。
 明治30年頃の建物で、華麗な木彫りのある珍しい媽姐神をまつる唐寺。(1868年に福建会館が福建省泉州の出身者により建設され、その後会館の右側に天后堂が建設されましたが、福建会館は残っていません。)2001長崎ランタンフィスティバルの媽祖行列では、1月28日(日)はこの福建会館から興福寺までパレードし、2月4日(日)には興福寺から福建会館の逆コースをパレードします。
 これを見て私も初めて知りましたが、通常《福建会館》と呼ばれているものの、この江戸時代に建設された《福建会館》自体は現在は残っておらず、明治時代に隣接して造られた天后堂だけが、今も残っているようです(現地確認すると、本来の《福建会館》は原爆で崩壊し、現在は公園になっているのだそうです)。「媽祖行列」は此処を出発して興福寺へ向かい、また此処に帰ってくるといった道順になっています。この《福建会館》の天井は珍しい船底作りになっているそうで、つまりこの《福建会館》を唐船に見立てているわけですね。

RHAPSODY
媽祖さんを《福建会館》の中の天后堂に安置する夫人のお姿を撮影。
ちゃんと役名を持ってましたが、忘れました(汗)。
ここに安置される事によって、「媽祖行列」は終わりでした。
雨が降って濡れっぱなしになってて、本当に大変だったと思います。

 続いて、《天后堂》の方も、著作権無視なコピー&張り付けしてみます。
 長崎名勝図絵で1736年(元文元年)に北京人達が航海安全を祈願し天后聖母をまつったのが、その起源です。その後火災で焼失しましたが、1906年に全国の華僑の寄附により再建されました。この唐寺には、媽祖神とともに関帝もまつってあり、別名関帝堂とも呼ばれています。また、媽祖の随神「千里眼」と「順風耳」も安置されています。
 《福建会館》と比べて、こちらの方が更に古いものとなっています(ちなみに一番古いのは、1691年、元禄4年に建立されたらしい《土神堂》ですが)。「関帝」というのは、『三国志』に登場する武将・関羽の事で、彼もまた神格化され、特に華僑の人たちの間で信仰されています。《湊公園》に祭壇が設置され、祀られていたのが、この「関帝」でした。

 2月4日の「媽祖行列」を《福建会館》で見ていた時に、そばに地元のおばあさんがいて、ここで行われた儀式について、ちろちろと解説しているのを耳にしました。《天后堂》が建設されてから、270年。媽祖神への信仰は絶える事無く生き続け、現代において、こうした一大イベントとして発展しました。仙郷にいる林黙娘媽祖は、喜んでくれているのでしょうか。

 ちなみに、今回インターネットで調べてみようかと検索してみたところ、箱根の方で同じように媽祖神の「菩薩揚げ」が行われており、龍踊りにソックリな、竜の舞いの写真がありました。意外に、華僑の影響は日本各地に存在しています。こういうものをもとにした都市交流を行ってみるのも、面白いんじゃないでしょうか。>長崎市


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