高橋ひろ
「僕と僕のドリフターズ」

こんにちは。高橋ひろと申します。 たかなみくんとは14年のつきあいになります。 お互い音楽や、面白いことが大好きで、今までにも 「カレーに普段入れないものを入れて食べる会」を催したり、 ちょっと変わったことをやって楽しんできた仲なのです。
  彼は近年、自らを「思い出おたく」といい、 「思い出のみに生きる」とさえ断言していました。 実は僕の体質も「思い出おたく」そのもの、 であるにもかかわらず、 そんな自分を卑下するきらいがありました。 しかしそこに、堂々とした彼の宣言。 潔さに心打たれ僕はしばらく麻布十番の路上にて動けなくなりました。 そうか、楽しいことを禁じるなんて、なんて自分は馬鹿だったのか! (GUESS I'M DUMB) いいじゃないか、楽しいならば!
 「過去にはパワーはない」という考え方があります。 つまり船が通過した跡にできる波<航跡>には船を前進させることは出来ない、と。 勿論それは今この瞬間のエネルギー<船のエンジン>こそが 人生を動かしていく原動力だということを言いたい為の たとえだったりするのですけど、 僕は今気付いた。 「過去こそが人生を前進させる 偉大なるパワーである」!と。 そしてこれから過去の様々な記憶をここに投げかけていきたいと思います。

 第一回のお題は「僕と僕のドリフターズ」、 ということで書き進めてきたのですが、あまりにも膨大なものになり、 しまいには楽しさが減ってきてしまい、 これでは本末転倒なので、 【1971(S46)年 6ヶ月の空白】 という項からひとつ披露させてもらうに留めたいと思います。
 「全員集合」は69年10月から85年9月までの 16年の長きにわたって放送されたお化け番組で・・・ などと新聞他によく書かれていますが、 正確には71年4月から9月までの半年間だけ、 クレイジーキャッツの「8時だよ!出発進行」という番組に差しかわっていたのです。 小学校に入学したばかりの僕らは それでもドリフターズからの流れでその番組を見続けていましたが、 子供ながらに勢いの差を感じていたものです。 その 間ドリフターズの方は日本テレビに場所を移して、 「全員集合」的な公開番組を続けていたのですが、 こちらの方はこちらの方で「全員集合」ほど 入っていけなかったのもまた事実。 10月から再びTBSの土曜8時にドリフターズが戻ってきた時は 「収まる所に収まった」的な安堵の気持ちがあったはずです。 ちなみにこの71年のドリフターズのお正月公演を日劇でかぶりつくように観ていた亀戸幼稚園の園児だった僕は、 「そんな真ん前でお口あけて観てるとほこり入っちゃうよ」と、いかりやさんにいわゆる“客いじり”をされたのです。 貴重且つ良い思い出です。
 そのいかりやさんが3月に亡くなり、 時を同じくして同じ昭和6年生まれの芦屋雁之介さんも鬼籍に入られました。 週刊文春の小林信彦さんのコラムに、 雁之介さんの死を報じるメディアの扱いの不当さを嘆く知人の話が載っていました。 “娘よ”と“裸 の大将”だけの人、という扱いがたまらない、 長さんは国葬に近かったのにと。 そこで小林信彦さんはその知人に言います。 「いかりやさんも“ベースを弾くCM”と“踊る大捜査線”がなかったら 昔ドリフのリーダーだった人で終わってましたよ」と。 おしまいにその小林信彦さんが34年前に書かれた 「ドリフターズの強み」という文章を紹介します。

 〜いまのドリフターズの前身---“桜井輝夫とドリフターズ”が ジャズ喫茶の客をわかしていたのは十年近く前。 いかりやのパート(役)が桜井で、 加藤茶のパートがポン青木という人だった。 ぼくはこのバンドのファンで、NHKのある番組で司会をやっていたとき、 ムリに引っぱり出した。
(中略) クレージーキャッツは、ハナ、植木、谷がそれぞれ芸人で、 谷啓はプレーヤーとしても日本のAクラスだった。 ドリフターズは、分裂後の寄せ集めで、 とうてい“ 芸”といえるようなものではない。 だから粉骨砕身、やるのだ、といかりやはぼくに 語った。 ドリフの人気は、そういう“初心”みたいなものを 貫いている点にあると思う。
(中略)
その点、ドリフは、素人という点で居直っている。 だから、これを“芸 ”とかそういう尺度で評価したら、まるでダメだ。 人間の肉体がどのくらいタイミングよく動くかというドキュメントみたいなものである。 〜(1970年11月21日山陽新聞)

 


高橋ひろ プロフィール

ポップス歌手。 東京オリンピックの年に生まれ、 その20年後にバンドを結成(92年散会)し音楽の方面 に矢印を向け、 さらにその20年後の今年、誕生40周年バンド結成20年記念のCDを制作予定。

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