essay
  平成16年2月9日 
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
自家製の梅干し
 「おっ、梅か…」
 梅の花の香りが、かすかに漂ってくる。
 朝起きて居間の大きなガラス戸を開けると、暗闇の中に、きのうまでとは違った空気が流れていた。庭の梅が咲いたのだ。梅は夜開くのだろうか。それとも、きのうの午後にでも咲いたのか。対岸の町の明かりが水平線になってまたたき、海はまだ闇の中。午前5時、いつものように、庭の雪やなぎを見るために縁側に出たのだった。
 雪やなぎが揺れていなければ風がない。揺れていれば海にも風が吹いている。風がなければ漁に出る。風があれば出られない。だから、毎朝、そうやって早く起きて雪やなぎを見るのだ。今朝は微風。うーん、どうしよう。もう一度布団に戻って惰眠をむさぼるとしようか。
 午前7時、こんどは海を見る。
 「波がある…」
 あきらめよう。ひとりで船を操り、箱眼鏡をのぞいて海の底にいるナマコやウニを竿で引っかけて捕る掛け漁は、風があったら船が流されて仕事にならないのだ。 
 
 梅一輪一輪ほどの暖かさ 嵐雪
  
 私は、梅が好きだ。梅には清楚な気品がある。そこがいい。
 ほのかな香りがまたいい。ごつごとした木の姿にも趣がある。
 あでやかな紅梅もわるくはないが、凛とした早春の冷ややかさを感じる白い梅のほうを私は好む。白い小さな花は、ひかえめでありながら、強い意志を感じる。
 女性も、そういうひとが好きだ。
 亡くなった風間完さんが描いた女性。首筋がぴっと伸びて、せいひつで、そこはかとない気品があって、それでいてどこか深い愁いをふくんでいるような。
 つむぎの着物をしゃきっと着こなした、小股の切れ上がったいい女。
 そういうひとは、みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 女だけじゃない。男だってそうだ。昔は、紳士がいた。粋な男がいた。
 いまはどうだ。お金が幅を利かす世の中になってから、みんな隅の方へ押しやられてしまった。まっつぐ、愚直、正直者、そんな言葉さえも死語になってしまったかと思うほど、下品なおたんこなすばかり。

 なぜ、そういうことになってしまったのか。
 私は、食べ物のせいだと思う。それも、自家製の梅干しを食べなくなったから。
 いや、もとより暴論。科学的根拠なし。無視してもらって結構。ただ、なんとなくそうじゃないかなあと思うのだ。
 昔は、どこの家でも梅干しを手づくりしていた。そして、毎朝ひとつは食べ、弁当にも入っていた。いや、入っていたではなく、ご飯の真ん中にどんと座って威張っていた。それは確かに、日の丸のようであった。
 いま、梅干しを手づくりする家庭はどれくらいあるのだろう。
 日の丸弁当は、久しく見ない。日の丸を見ないのだから、日本人のココロを持った楚々とした女も、いなせな男も消えたのだ。恥を知らない女、平気で嘘をつく男。みんな、自家製の梅干しを食べなくなったせいだ。
 聞いた話だけれど、近頃、スーパーやコンビニで売られている梅干しには、「賞味期限」が書いてあるとか。着色料を使用しているので冷蔵庫で保存するようにとも記されているという。スーパーやコンビニには行ったことがないので、自分の目で確かめてはいない。もしかしたら、ジョークかもしれない。でも、それを教えてくれた人は嘘をつくようなひとではないから、おそらく本当なのだろう。
 「梅干しは100年放って置いても腐らない」と、子どもの頃から聞いていた。万能薬で、整腸作用、消化促進、殺菌作用があり、疲労回復や老化防止にもいいと何かの本で読んだこともある。
 手間がかかる梅干しづくりを放棄し、ファーストフードに走る母親は、なにも都会だけでなく、田舎でも同じ。おにぎりを食べたければ、コンビニで安く売っている。だいいち、近頃は小学校の運動会でだって、こころづくしのおにぎりなんてあまり見かけないらしい。カップラーメンやふっかふっかのお弁当なのだという。
 農薬、化学物質、添加物、防腐剤、着色料。手軽さと安さ。偽表示。6ヶ月前の玉子。
 鳥葬の国チベットでは、この頃、鳥が鳥葬への参加を拒むのだとか。ニンゲンの体に染みこんだ化学物質を警戒しているのではと見る学者もいるのだと、最近の新聞だか雑誌だかに書いてあった。そこまで行っちゃってるのか。
 
 きょうは漁に出られないので、この前剪定した梅の枝を片づけよう。
 梅は花も楽しめるが、実もうれしい。妻が、いっぱい梅干しをこしらえてくれる。梅酒も仕込んでくれる。
 我が家には、秘蔵の梅酒がある。
 古酒。古びた瓶が年代順に何本も並んでいるが、いちばん古い瓶には、「昭和44年、家の梅」と書かれた黄ばんだラベルが貼ってある。私たちが結婚した年に、母が仕込んでくれた梅酒だと、妻が言う。
 極上の かおりとろり うちの梅。