essay | |||||||||||
平成20年7月13日 34 | |||||||||||
思えば遠くへ来たもんだ | |||||||||||
君は山へ行きたいから会社を辞めるのか。 会社の上司にそう聞かれて、私は、「はい、そうです」と応えた。 日本人の海外旅行が自由化されたのは1964年(昭和39年)4月のこと。いまの若い人には想像もつかないだろうが、それまでは海外旅行に行きたいと思っても、誰もが簡単にパスポートを手にすることなど出来なかったのである。 Wikipediaによれば、この年、東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催されている。プロ野球では阪神タイガースと南海ホークスが優勝し、日本シリーズは南海が制覇。競馬ではシンザンが史上2頭目の三冠馬に輝き、映画ではモスラとゴジラが戦っている。出版界では平凡パンチとガロが創刊された。 当時、私は22歳。島津製作所に勤めて3年。独身。新幹線にもオリンピックにも、プロ野球にも競馬にも、映画にも漫画にも世の中の流行にも一切興味はなく、ただひたすら、山登りだけに熱中していた。仕事も一生懸命していたとは言えず、週末や連休はほとんど山に入っていた。山では縦走や沢登りもしたが、興味の対象はもっぱら岩登り(ロッククライミング)であった。クライミングを続けるうちにどんどん深みにはまり、いつしかヨーロッパ・アルプスへの興味を強く抱くようになっていた。〈いつか、アルプスに行きたい〉〈一度でいいから、マッターホルンに登りたい〉と熱望していた。 そんな私にとって、海外旅行自由化のニュースは目を見張るものがあった。〈そうか、行けるようになったんだ〉〈行けるのか〉〈絶対行くぞ〉と、夢は一気に大きくふくらんだ。 前年に工学院大学電子工学科の2部(夜間)に入学し、昼は働き、夜は勉強し、休みは山へ行くという生活をしていた私は、その年、中央大学文学部2部を受け直し仏文科へ鞍替えした。電子工学はどうも向いてないなという気もあったが、それよりそのころ目にしていたヨーロッパ・アルプス関係の文献がみなフランス語だったので、フランス語を勉強しようと思ったのだった。『異邦人』『反抗的人間』『シジフォスの神話』などを読んで、アルベール・カミュの文学にも傾倒していた。 翌65年、芳野満彦が日本人で初めてマッターホルン北壁登攀を果たし、同じく高田光政がアイガー北壁を落とした。この報せも私の心を揺さぶった。もはやいろいろ考えてる場合ではなかった。私は先駆者を訪ねて直接話を聞き、スイスやフランスのガイドブックを取り寄せ、マッターホルンやモンブランなどの登攀ルートを調べたり、安く渡航する方法を練ったりした。貨物船に乗せてもらえばただで行けるという噂を聞いて、実際に海運会社を訪ね歩いたり、フランス語を話せるクラスメイトに月謝を払って会話を教わったりもした。 66年。「3ヶ月間、休職することはできますか」と会社に訪ねると理由を聞かれた。「山へ行きたい」と応えると、笑われた。それならと私は会社を辞めることにした。フリーな立場になって好きなだけ山に登ろうと決めた。大学の1部(昼間)への転部を計り、2年生から3年生へ難問の試験をクリアして学生になった。 夜間の学生だったとき、体育の時間に柔軟体操をして上体を後ろにそらせると夜空に星が見えて、〈これは普通の状態ではないな〉と思った。昼間の学生になって最初にいいなと感じたのは、学舎の窓から差し込むまぶしい光だった。授業はそっちのけで、窓の外のひらひらと揺れて光る樹木の葉をいつまでも飽きずに眺めていた。 3年遅れて来たひねた男に親しいクラスメイトは出来なかったが、山岳部の部室に顔を出せば、山で知り合った顔見知りが何人もいた。私は大学の山岳部には属していなかったが、社会人山岳部に所属し、大学の山岳部よりも先鋭的な登攀をしていたので、顔は知られていたのだった。やりたいことも決まっていたし、行きたい場所もあった。だから、孤独ではあったが疎外感はなく、秋葉原で暴走するようなこともなくて済んだ。 会社を辞めたので、アルバイトで学費を捻出した。当時は学生運動がたけなわで授業は休講が多く、アルバイトをする時間はいくらでもあった。私は学生運動にはまったく無関心だったので、アルバイトばかりしていた。金になる土木作業を初め、腰が立たなくなるような製本や家電製品の製造現場作業など、さまざまなアルバイトをした。酒はよく飲んだが、麻雀や競輪競馬、パチンコ、フーゾク、女遊びなどには見向きもしない、思えば暗い若者だったような気もする。金がないのは若者の特権で、昼飯を抜き、食べたことにして金を貯めたりもした。それでも金は思うように貯まらず、結局は10人ほどの友だちから各1万円ずつ出世払いで借りまくって(あとでちゃんと返した)渡航費用をつくった。ひもじい思いはしたけれど、夢があったから卑屈ではなかった。当時は、外貨持ち出し制限が500USドル(1USドル360円×500=18万円)と決められていた。 そして、1967年(昭和42年)。大学4年(25歳)の夏。 7月28日、私は横浜港からソ連船籍ハバロフスク号に乗船し、ナホトカへ向けて出航した。 ナホトカからは鉄道でハバロフスクへ。ハバロフスクからはエアロフロートでモスクワへ飛び、モスクワからはまた鉄道でワルシャワやプラハを経由してウイーンへ入った。ウイーンからチューリッヒへ出て、8月5日、目的地、スイスのツエルマットに到着した。(続く)。 |