essay
  平成21年3月20日 36
海を見ながら
思えば遠くへ来たもんだ
あれから40年。
 「あれから40年、いま、女房の顔を見れば不整脈…」。
 「あれから40年、いま、口紅を塗ったために唇だけ若返り、畦道に彼岸花が咲いているようです」
 綾小路きみまろが面白い。友だちがダビングしてくれたカセットテープを聴いて笑っている。
 40年前と言えば、いま2009年だから、1969年(昭和44年)か。
 そうだ、結婚した年だ。
 67年にヨーロッパ・アルプスへ遠征し、68年に大学を卒業して小さな出版社に就職し、69年に結婚した。
 あれから40年、そう、いまとなっては女房の顔などじっくり見たことはないけれど、見ればどうなるだろう。まさか不整脈にはならないだろうけど、ちょっと怖い気はする。
 40年前のちょうど今頃だったか、東大安田講堂事件などの第二次安保闘争の騒ぎをよそに、ノンポリの私はこれから彼女と一緒に住むアパートを探して、中央線沿線駅前の不動産屋を訪ね歩いていた。なぜ中央線沿線だったのかは忘れたが、高円寺、荻窪、吉祥寺、三鷹とどんどん下がって行って、やっとのこと武蔵小金井の駅前でこれはというところを見つけた。これ以上は出せないと決めていた「家賃1万円」のアパートはそこまで下らなければ見つからなかったのだ。
 妻はそれまでアパート暮らしをしていて布団、タンス、机、テレビ、鍋釜一式を持っていたので先に引っ越し、私は結婚式の二日ほど前に登山用のキスリングという大きなザック(中身は登山用具)ひとつを担いで、そのアパートへ転がり込む形で入った。妻の布団ひとつを敷けば足の踏み場はなくなったが、若い二人にはそれで十分だった。
 武蔵小金井の駅前の飲み屋街に並ぶそのアパートは変形の六畳一間で、形ばかりの台所兼洗面所、それに狭いトイレと小さな押し入れがひとつ付いただけ。道路に面した二階の角部屋で下は飲み屋。安普請なので畳の隙間からは飲み屋の灯りが透けて見え、毎晩、その隙間から、♪逃げた女房に未練はないが…とか、♪ふた〜りは枯れすすき…といった酔っぱらいの歌声が聞こえてきた。まだカラオケなどない時代で、ギターの流しが来ていた。薄い壁一枚の隣の部屋からは若い夫婦の声もしっかり聞こえてきた。電車が通るたびに食器がガタガタ音を立てた。
 アパートの住人から、私たちは兄妹と見られていて、「妹さんはさっき買い物に行きましたよ」とか、「お兄さんはまだ帰ってこないの」などとよく声を掛けられた。ふたりで銭湯に行き、『神田川』のように石けんカタカタ鳴らして、冬はタオルが凍って棒のようになったのを面白がったりした。
 いつも狭い部屋で顔をつきあわせているのが苦痛になることもあったが、やがて長男が生まれ、仕事も忙しくなった。私はその頃原稿を書くのが遅く、会社で書き切れない原稿をいつも家に持って帰って書いていた。机は長男のベッドになったので、畳に寝そべって原稿を書いた。畳が消しゴムのかすでいつも汚れた。
 赤ん坊が泣けば抱いて外へ出て、赤い灯青い灯を見せて歩いた。客引きのおネエさんが「わー、可愛い、抱かせて」などと寄ってきてあやしてくれた。「きゃー、わたしオッパイ出ないのよ」などと叫ぶおネエさんもいた。
 私は一銭の貯金も持たないばかりかアルプス遠征時の借金まで抱えていた。1年かかってなんとかそれは返したが、まだ高校時代の育英会の返済が残っていた。安月給なのに山登りが好き、酒が好きで、困ったあんちゃんだった。
 「うちの会社は駄目な会社でボーナスもないんだ」と妻には告げていた。その頃は、給料もボーナスも銀行振り込みなどではなく、直接手渡しだった。だから、必要な小遣いと明細書をあらかじめ抜いて、残りを妻に渡していた。ある時、近所に住む先輩が遊びに来て、「お前、こんどのボーナスで何を買うの」と馬鹿なことを聞いてくれた。それでバレてしまった。
 すぐ続けて二男が生まれ、さすがに部屋が狭くなった。押し入れに足を入れて寝た。
 仕事は出張が多く、ひさしぶりに家へ帰ってくると、子どもが人見知りして泣いた…。

 あれから40年、いま、長崎で立派な?百姓と漁師をしている。去年からは体験民宿と喫茶店の親父も始めた。妻は元気で留守が多い。金を払ってくれるお客さんは滅多にない。でも、これでいいのだろうかと反省することもなく、これでいいのだと思っている。