自給自足
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物語
自給自足で
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人生の楽園


       33 木工を楽しむ (看板屋)
 「早く食べたもんは、金子さんちに連れて行くぞ」と言うと、みんなあわてて給食を食べるのだそうだ。保育園の園長が、そう言って笑う。
 ヤギやニワトリがいる金子農園は、近くの保育園の園児のお散歩コースになっていて、しばしばチビッ子軍団の襲来を受ける。庭には、カバ、亀、ラッコ、イノシシなどもいて、チビッ子たちは列を作ってそれらにまたがり、はしゃぎまわる。そのほかにも、チンチン人形や、ドラえもんが、子供たちを喜ばせる。
 どれも、チェーンソーで丸太を削ってつくった、ぼくのゲージツ作品だ。
 これらはもともと、保育園の子供たちを喜ばせようとしてつくった。だから、一応、目的は達しているし、お陰でぼくは子供たちには大人気なのだ。朝や夕方、町道で保育園の送迎バスに出くわすと、バスの窓から園児全員が、「カネコさーん」と叫んで手を振ってくれる。
    生活雑貨も、いろいろつくる。庭のテーブル、イス、テラス。室内に置いてあるもので言えば、机、テーブル、イス、本棚、囲炉裏、火鉢、帽子掛けなど。
 傾向的には、細かい細工のいらない大ざっぱなものが多い。
 材料は、ほとんどが間伐材の丸太か、あるいは廃材。すべてあり合わせのものでつくることを、ひとつのポリシーとしている。それがいわゆる、おれ流。道具は、主にチェーンソーとノミ。
 「昔から、こういうことが好きだったんですか」とよく聞かれるが、「いや、昔はクギ1本打ったこともない人だったんですよ」と、いつも妻が代わって答えてくれる。
 つまり、田舎へ来て突然、目覚めたというわけだが、それは炭焼きで山へ入ったことがそもそもの始まりだった。山へ木を切りに行くと、曲がりくねった木や、コブのできた木、根っ子、洞のある木など、形のおもしろい木があって、これらは製品にはならないのでみな、捨てる運命にあると聞き、それならともらって帰り、眺めているうちに何か出来そうと思ってつくりはじめたのが、きっかけ。だから、ぼくのつくるものは、元の形を生かしたものがほとんど。
 
 たとえば、左の写真の「ウエルカム人形」。頭の部分は、漁に使う浮きだ。海に流れていたのを拾ってきた。長いことロープにつながれていたとみえ、下半分はフジツボがぎっしりこびりついている。これをひっくり返してみたら、黒人の頭のように見えた。で、目と口を描いた。曲がった桜の木が捨ててあったので拾ってきた。それを胴体にしたら、人形になった。だいたいが、こんな調子。
 囲炉裏でも、テーブルでも、曲がった木は曲がったまま使う。その曲がり具合がおもしろく、そこに味を感じるのだ。
 ところが、本職の大工さんがみると、「おれには出来ない」と言う。「おもしろいとは思うけど、おれたち大工は、まっすぐ、きっちりじゃないといけない、という意識が染みついているから」。そうだろうと思う。
 ぼくのは言ってみれば、タブーを持たない、幼児が描く絵のようなものか。
      左の写真の火鉢も、すべて廃材でこしらえた。
 製材所では、毎日、短い切れ端が出る。その切れ端は使い物にならないということで燃やしてしまう。それをもらってくる。短いから制約はあるけれど、木は立派なもの。それをうまく使えば、こんな火鉢ができる。
 うちに遊びに来る日本通のベルギー人が、「コレハ、江戸時代ノモノデスネ」と言うから、「そうだ」と言ってやった。「高イデスカ」と聞くから、「ベリー・エクスペンス」と言ったら、しきりにうなづいて、なで回していた。
         何を隠そう、ぼくは看板屋もしている。
 クライアントは友人ばかりなので、お金はとれないけれど、頼まれればイヤとは言えない。いつも、それ以上に世話になっているので。それに、「これでつくって」と、みんな材料を持ち込んでくるので、逃げられないのだ。
 炭焼きの師匠の店の看板、隣の地区の入り口案内看板などは、どちらも2メートルはある大作だ。友人の奥さんが経営している美容院の看板は、可愛らしくつくった。その看板を掲げてからお客さんが増えたか減ったかは知らないけど。
 
 子供向け遊具、生活雑貨、看板のほかに、もうひとつ大人から喜ばれているのが、アダルト成人向けゲ−ジツ作品だ。
 左の写真は、へのこ様。五穀豊穣、安産、恋愛、元気回復を祈願すれば(1回100円)、たちどころに願いを叶えてくれるというすぐれもの。もちろん、嘘、ジョーク。
 これを、初め庭の入り口に置いたら、アッという間に町中の評判になって、連日、押すな押すなの見物客。シャレで賽銭箱もつくって置いたら、ジャラジャラ入ること。あまりの評判に、観光バスまで来られたら困るので、とうとう家の裏のほうに隠しちゃった。
 それでも遅れて来る人もいて、いきなり車で庭まで入ってきて、「どこだ、どこだ」と騒ぐので、追い返すのに大変だった。
 「毎年、佐賀の神社まで行っとったが、わざわざ佐賀まで行かんちゃ、今度からここでよか。ねえ、お父さん」とか、「1週間、貸してくれませんか」とか、いろんな人が来た。
 知らずに来て、目を丸くしている人や、「わたし、気がついてないもんね」と、目をそらす人、逆に「キャー、なでちゃおう」と抱きつく人とか、「お願いします、パンパン!」などとミョーに真剣な人など、反応はさまざま。
 「教育上、よろしくない」とか、「こんなことで金儲けをしちゃいかん」という声も聞いた。
 別に、金儲けで置いてるわけじゃないんだけどなあ、ナルホドそういう見方もあるかと思って反省した。
 いつの世も、ゲージツは、理解されるのが難しいのであった。