平成20年2月19日 Vol 168
よかさ!
東京マラソン
 年末に体調を崩して走れなくなってしまった。
 ランナーにとって、走るという行為は一種の麻薬のようなもので、一日でも走れない、練習ができないというのはことのほかつらく、いままでにも膝痛や腰痛などで何度もそういう目にあってきているのに、これがなかなか慣れない。禁断症状のようにじっとしていられなくて、ついついランニングシューズを履いてしまう。そして恐る恐る走り出してみてはそのたびに〈ダメか〉と打ちのめされるのである。
 1月が過ぎてレースまで日もないので焦るのだが、どうにもならない。でも歩くのは歩けるので、慣れないウォーキングをしてみる。じれったいけれど、これしかやりようがないのでこれを続ける。10kmを早足で歩いて計測してみると、1kmをフラットなところで約9分半、登り坂で約10分かかることが分かった。
 レース直前まで走ることを試みたが、いつも300mくらいしか走れず、ついに42、195kmの完走はあきらめざるを得なくなった。で、考えて練ったのが次のような作戦。
 10kmを初めから最後まで早足で歩き通す。そして10kmの関門で棄権する。
 スタート時間は9:10で、10kmの関門(10、5km地点)の閉鎖時間は11:04(1時間54分)と決められている。
 つまり、1km9分半のペースで歩けば10kmが1時間35分。それに500m分を5分プラスして1時間40分。あとは、号砲がなってからスタート地点にたどり着くまでのロス時間を10分と予想して、合わせて1時間50分。10km関門が日比谷シティ前なので、ここに11時到着。そこを自分のゴールとする。
 走れないのなら初めから出なけりゃいいじゃないかと言う人もいたし、無理なことをせず静養すべきだと忠告してくれた友だちもいたが、「へそ曲がり偏屈我が侭頑固身勝手怪気炎」の父ちゃんは断固出場を決定。
 
 2月17日(日)快晴。
 昨年のような雨にならず助かったが、冷え込みは厳しく、スタートまでの待ち時間にランナーは震え上がる。父ちゃんは、下から半袖ボディウエア、長袖ランシャツ、長袖のラン上着、着古したセーター(これにあったかどんとを貼り付け)、その上に半袖ランシャツ(これにゼッケン)、ビニールの合羽、さらにマフラーにマスク、帽子の完全防備。下半身はパンツ、タイツ、ランニング用ズボンでほっかほか。歩き始めたら暑くなるので、不要な物を次々に脱ぎ捨てていく作戦。ポケットにあめ玉3個。
 8時45分に整列完了。9時10分スタート。実況アナウンサーが声を張り上げ、四角い空にヘリコプターが3機バタバタと飛び交い、都庁の摩天楼にハート型の紙吹雪が舞う。特製スタンドでは石原慎太郎が手を振っている。参加者は3万人。壮観だ。申し込みは15万人を越えたという。参加費1万円。ボランティアは12000人というからすごいな、「東京がひとつになる日」東京マラソン2008。
 
 さて、スタートしてみると、ぎっしり詰まった人並みに押されて歩くことが出来ない。仕方なく流れに乗って走り出し、新宿から靖国通りへ吐き出される。市ヶ谷まではゆるい下り坂のせいか、練習では300mしか走れなかったのに、なぜか走れている。2kmほど行ったところで、マフラー、セーターを脱ぎ捨て(ビニールの合羽はスタート時に捨てた)、5km地点で上着を脱いで腰に巻き、7km地点でズボンを脱いで腰に巻き付ける。身軽になったら気分も高揚してとうとう歩くことなく10kmまで走り切ってしまった。でも、なぜ走れたのだろう。
 5km地点で35分21秒。10km地点で1時間12分31秒。日比谷シティ前に予定よりも32分も早い10時28分に着いてしまった。君子さんや子どもたち、それに友だちのIちゃんには11時に着くからと言っておいたので誰にも迎えられず、勝手に自分で決めたゴールに飛び込む。そして係員に計測チップを渡して途中棄権のフィニッシュをしたのだった。

 村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』という自著の中で、「途中で歩いたことがないのが僕の誇り」と語っているが、父ちゃんはいままで、トライアスロンとマラソンのレースに合わせて75回ほど出場しているが、一度も途中棄権がないのを誇りにして来た。
 それが、ついに初めての途中棄権。つまり初めて味わう苦い挫折のはずだったのだが、いやいや思いのほか挫折感はなく、目標としていた10kmを「歓走」できたことで、逆に爽やかな気分に浸れることが出来たのだった。こういうのを、うれしい誤算というのかしらん。