自給自足
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物語
自給自足で
自然に暮らす
人生の楽園


       35 アルバイトをする (出稼ぎ)
 百姓に出稼ぎはつきものだ。だから、ぼくも、暇なときは出稼ぎに行く。
 出稼ぎといっても、何ヶ月も遠くへ行くなんてことはない。「きょう、ちょっと加勢してくれんね」と頼まれて、「いいですよ」と行くくらい。まあ、ちょっとしたアルバイトのようなものだ。大抵は2、3日。長くても1週間。
 あるときは道路工事の作業員、そしてあるときはミカン採りの農夫、そしてまたあるときはユンボの運転手。しかしてその実体は…。多羅尾伴内じゃないけど、ぼくは七つの顔を持って、どこへでも出掛けた。
 ちなみに、ざっと数えてみよう。建築現場の鉄筋曲げ、生コン打ち、ダンプの運転、アスファルトのローラー運転、電柱の穴掘り、ブロック積み、排水溝の設置、家屋の解体、森林の伐採、草払い、炭焼き、ミカン採り、植木の植裁、わら積み、ゴルフ場の従業員、ナマコ漁助手、エッセイの講師、などなど。
 ま、ほとんどが肉体労働だが、唯一、頭脳労働と呼べるのがエッセイの講師だ。これは、もともとボランティアのつもりで出掛けたのだが、断り切れずに報酬を少しもらってしまったので、アルバイトになってしまった。
 一度、アブナイ目に遭った。深い穴の中で配管工事をしているとき、土砂崩れにあって胸から下が生き埋めになったのだ。配管の下に足が挟まって、骨折寸前。危ういところで助け出されて病院へ運ばれ、一命を取り留めた。
 その事故が起こったのが朝で、病院でレントゲンを撮って昼に帰宅。「あら、きょうは早いわね」と妻が怪訝な顔をするので、心配かけてはと思い、「釣りに行きたいから早退きしてきた」と嘘をついて、アジ釣りに行った。足をさすりながら船の上で糸を垂らしたら、これがまた入れ食いで、大漁。
 それが事故関係者にバレて、「みんなで、飯ものどに通らないくらい心配しとったのに…」と、ヒンシュクをかってしまった。結局、妻にもバレて、「もう、アブナイ仕事には行かないでください」と、くぎを刺されてしまったのだった。
 エッセイを書くのは危なくないので、雑誌や新聞の募集をみては応募するようになった。といっても、手当たり次第にというわけではなく、これはと思うものに的を絞ってねらい打ち。もともと、物書きの端くれ。ツボは心得ている。入選は、ほぼ百発百中、うまくすれば優秀賞、最優秀賞となって、賞金がもらえるというわけ。お陰様で、ずいぶんと稼がせてもらった。「ズルイ」と言われたこともあるが、これも生きていくための知恵。特技は生かさなくっちゃ。
 賞金がもらえるのもありがたかったが、表彰式に招待されてただで東京へ行けるのもうれしかった。表彰式はどうでもよく、それより昔の仲間に会えるのが楽しみで、これは病みつきになった。毎年、お陰様で、墓参りもできた。アメリカ招待も、おいしかった。
 賞金と賞品が目当てだから、チンケな募集には応じない。原稿用紙5枚以上もパス。楽して儲けるスタイルを貫いている。たまに新聞の投稿もする。これは、友人知人への「元気お知らせメール」。いわば、田舎で埋もれているぼくのアイデンティティーというようなもので、「見たよ」の連絡を楽しみにしている。
 副賞は、くだらないものもあるが、米とか、ワインとか、農産物1年分とかはうれしい。でも、ミカン採りに追われているときにミカンがきたときは、マイッタ。
    妻は、ホームヘルパーをしている。
 ホームヘルパー2級の資格を取得して、琴海町の社会福祉協議会に所属し、非常勤で地域のお年寄りのお世話をしている。週に3回ほど、食事や掃除、入浴介護などもしているとのこと。
 そのほかに、週1回、地域のミニ・デイ・サービスをまかされて、頼りにされている。
 見ているとずいぶん大変そうだが、つらそうな顔を見せたことはない。わが妻ながら、エライと思う。感心する。
 「疲れない?」
 「そりゃ、疲れるわよ」
 「つらくない?」
 「うちの誰かさんの介護に比べれば、楽なもんよ」
 「…」
  
 敵は、着物の着付けの先生もしている。
 公民館で教えたり、結婚式や入学式、成人式、七五三などがあると声がかかって出掛けていく。
 近頃の若い女性は、ほとんど自分で着物が着られない。ま、それは分かるけれども、その母親も着せられないらしい。そのくせ、誰もが高価な着物を持っている。
 脱ぐのは誰でもできるらしい。ぼくも、着せることはできないが、脱がせるのは自信がある。脱がせて、と言われれば、断ったりはしない。いや、相手によるな。
 ぼくも、正月は着物を着る。先生に着せてもらう。
 着物を着ると、ぼくは、条件反射的に、酒を飲みたくなる。どうしてなんだろう。