僕は親の会たんぽぽが主催する「フリースペース長崎」という不登校の子どもの居場所でスタッフをしています。
フリースペース長崎(通称フリスペ)は、毎週1回開催しています。
親の会たんぽぽは毎月1回、会員向けに通信を発行していて、前回の親の会の様子や、次回の開催情報などいろいろ書いてあります。
親の会通信の中に「フリスペだより」というコーナーもあり、そこの文章の一部は僕が書いています。
前月のフリスペの様子や、時には僕自身の経験や感情、考えなどを書いているのですが、時にはボツになる文章が出てきます。
今回はそのボツになった文章を、ここに掲載しようと思います。
ボツと言っても、誰かに言われてボツにするわけではありません。
自分で読んでみて、または事前に人に読んでもらったりして、そういうことの中で僕自身が「変えよう」「やめよう」と思うことがボツになるということです。
もちろんボツになる理由があります。今回の文章のボツ理由は「フリスペだよりにはそぐわない」というものです。
とはいっても、自己判断ですのでボツになる頻度は低いです。この文章は今月のフリスペだより用でしたが、久々ボツになり、しかし内容はどこかで出せたらいいなというものでした。
よかったら読んでみてください。
不登校していると“学校に行けない子”と見られますが、それはあくまでもその瞬間、その時の在籍校のことに過ぎません。
何かがほんの少し違えば楽しく学校に通えていたかもしれない、通える学校に出会えたかもしれない。
その学校のあり方や、教員、同級生、家庭の事情、時代など、様々な背景の中で子どもが学校へ行けなくなった時、“不運”という言葉が僕の頭をよぎることがあります。
「あの担任じゃなければ」「あの学校じゃなければ」「あの生徒がいなければ」「この家庭じゃなければ」。
そう思ったところで何もかわらないのですが、そういった様々な背景を無視して“学校に行けない子”と見るのはおかしいと思うのです。
当たり前ですが、子どもたちは学校を、教員を、同級生を、生まれてくる家を選ぶことはできません。
でもその偶然性の中で学校へ行けなくなり、時に命を懸けるような体験をさせられてしまう可能性がある。
学校へ行けないことの責任を子どもに押し付けていけば、最終的には「この場所に生まれてきたことが苦しみの始まりだった」という結論にたどり着くかもしれません。
“不運”はすべてを解消することはできないでしょう。
しかし、どうすれば改善することができるのかを考えていくことができるのならば、なるべく様々な子どもが通えるような学校にしていくべきです。
それが、学校へ通うということが子どもにとって当たり前である、という時代をつくった責任でもあると思うのです。
「不登校はどの子にも等しく起こりうる」。
この言葉の真意は、「どの学校も不登校を等しく生み出しうる」ということではないでしょうか。